ソリッド・ステート
「海東さん、ようやく、ようやくこの時が、ついにきたのですね...」
「.........」
白衣に身を包んだ海東博士は、興奮と喜びに満ち溢れ、研究室の机に置かれた白い躯体を前に言葉を失い立ち尽くしていた。
「30年という時間は、短かったですか?長かったですか?」
「そうだな...俺のちょうど半生だからな...長いようで短い、短いようで長い。それが一番の言葉かもしれないな」
「私は、その半分をようやく生きたことになりますね」
「そうか、君はまだ俺の半分か」
海東博士は、白髪の混じる頭をなぜながら、大きく苦笑いをして、最近笑うための筋肉が使われていないことに気付いた。そして、ふと耳の付け根あたりからぞわりと頭上にあがってくるようなおぞましい不安を感じた。
「俺が生み出したこの物体は、一体、未来永劫、この物体のままであり続けるんだろうか」
「どうしたんですか。海東さんらしくないことをおっしゃいますね」
「いや、のぼりつめてみると、景色が変わるというか。これを作ったことは本当に正解だったのかと、急に不安になってね」
「まぁ、その価値は、我々が見つけ出すものではないかもしれませんから」
「そうだな......」
助手の渡辺は、30歳で研究者としては若手だが、何事にも動じない落ち着いた性格で、その顔の小ささが唯一、次世代の若者であることを物語っていた。
海東の研究室に所属して5年、渡辺にとってこれまでに関わってきたどの研究よりものめり込んだ開発だったが故に、完成の産声を共に聞けたことは、海東のような興奮よりも安堵に近いものがあった。
「博士、コーヒーでもお淹れしましょうか?」
「あ、あぁ、ありがとう。そうだな、少し落ち着こう」
渡辺は、海東がコーヒー以外の飲み物を摂取しているところを見たことがなかった。海東の身体に流れる血からは、アロマが抽出されるかもしれない、と思いながら、実験してみたい衝動にかられそうになるのを必死で抑えていた。
ひっそりと佇む白い躯体は、しっとりと水気を帯びていて、きめ細かい粒子が集まっている。こちらの興奮と思惑にはなんの関係もなく、音も立てず、ただ存在している。
海東と渡辺は、濃いめのインスタントコーヒーが注がれたマグカップを両手で持ち、その躯体を一点に見つめながら並び座って、液体をすすり始めた。
「なんだか、踊り出したい気分ですね」
「踊る?」
「踊り方はわかりませんが、そんな気分です」
「むかし、ジュークボックスという箱があってね、俺がよく行くドーナッツ屋に置いてあったんだ。聴きたい曲の番号のボタンを押すと、積み上げられたレコードの1枚が選ばれて、回転台が下から上がってくる。それからぐるぐるとレコードが回って、古い曲が流れる。どれもこれも親父の世代に流行った曲だった」
目の前の白い躯体からは目を離さずに、海東は淡々と昔のことを話した。だけど、それは、もしかしたら嘘かもしれなかった。渡辺には、それがなんとなくわかるのだった。
「この白くて四角いものが、いつか誰かの心臓を射抜き、踊らせることもあるんでしょうか...」
「渡辺、俺はこの白いやつに、そんなことを願ってはいないよ」
「ところで、名前は付けるのですか?」
「いや、まだ決めていない」
名前を付けると言われて、改めて目の前の白い躯体を眺めた。東の窓から、一筋の風が吹き、まるで自ら反応したかのように躯体がふるふるとゆれた。表面をまとう粒子が光る。
「『東風』で『トウフウ』というのはどうだろう?」
「いいですね、賛成です」
未来永劫、生き続ける粒子は、進化し、誰かを踊らせることになるのかどうかは、この躯体を手にした者にしかわからない。