鉄橋と大きな馬
大きなニキビができたね、と僕の頬に触れようとした母さんが、別のほうに気を取られ、アッ、と指差したので、そちらを視る。この河は一級河川だから蛇行しても遠くまで見渡すことができるのが好き、と母さんは言った。僕と母さんが歩く堤防はちょうど河の曲がる頂点あたりだから、行く先も帰る先も数本先の鉄橋まで見渡すことができる。ホラッ、と続けて僕に母さんが示した先は鉄橋の袂で、母さんは、そこから馬が来るよ、と言った。
盛り上がった堤防の奥を下ったあたりは工場地帯で、鉄橋の袂から見える馬の頭の背景は燻んだ銀のパイプやダクトが蠢いている。そんなところで馬は働いているんだよ、と母さんは言った。大きいね、大きい、ほんとうに大きい、と、母さんは歩み来る馬の様子を興奮気味に眺めている。馬の頭に続いてその胴体が現れ、馬の脚、その全身が橋に載ったとき、馬の頭は鉄橋を支える鉄線の塔をゆうに越え、鉄線から空のほうへ馬の半身がはみ出していた。それを視た母さんは、半分空だよ、と言った。
ひとつの鉄橋に一頭の馬。手前から順々に鉄橋に現れ、続々と鉄橋が途切れる中腹あたりまで進んでいく。母さんはさらに興奮したのか、馬の真似をして、四つん這いになり、後ろ足を蹴り上げたり、嘶いたり、あの馬は本当はこんなことしないんだよ、と、堤防を駆け、河原へ降りてしまった。慌てて追いかけた僕の前で、母さんは倒れ伏すように頭をさげ、こうッ、と身体を横たえて河の水を飲む仕草をしながら僕を視、笑った。
興奮する母さんを水辺から引っ張り戻すと、いちばん手前の馬が、鉄橋の途切れた場所までやって来ていて、母さんがさっきやったみたいに身体を横たえ、そこから河へ首を下げ、水面に口を伸ばした。馬たちはみんな工場で産業廃棄物とかヘドロを食べているから、その消化のために大量の水が必要になるのかな、と母さんは言う。ひとつ奥の鉄橋の馬、そしてもうひとつ奥の鉄橋の馬も少しずつ遅れて、身体を横たえる。馬たちは続々、脚を崩し、水飲みの体勢になっていく。こういうのって品種改良っていうのかなぁ、馬なんだけど、本当に必要なのはその消化器官で、それは今の時代、人を乗せたり、物を運ぶ以上に必要なことだから、と言った後、母さんは黙って、頭を抱え、背中を丸めて楕円になり蹲ってしまった。
心配になって僕が母さんの隣にしゃがみ、母さんの背中に手を当てると、母さんは蹲ったまま、知ってる? あの馬、興奮すると顔がミミズみたいになるんだよ。口をまん丸にしておかしいね。そう言って母さんは肘を支点に身体を少し持ち上げ、身体を揺らし始める。そして肩から肘への上腕そして頭を支える手へと伸びる前腕、そして頬のラインで形成された三角形の闇からヌッと眼を現し、覆い被さる楕円の、母さんの外にいる僕の顔をジッと睨めつけ、母さんはね。あの馬を近くで視たことがあるんだよ、と言った。
あの馬、普段は野球のドーム球場のようなところにいるの。そこは見学ツアーみたいなことやっててね。一つのドームに三頭くらい。所狭しって感じで馬がいるの。母さんが馬を視るため観客席に出ると、そのうちの一頭が母さんに気づいてね。こっちに駆けてきたんだ。興奮して。でも見学ツアーの引率の人が、なんでもないみたいな顔をしてたからさ、母さん、そういうもんなのかな、と思ってたんだけど、本当は、すぐそこに危険が迫ってるってわかっていてね。でもなんだか逃げる気にはなれなくて、駆けて来る馬をジッと視てたの。興奮して迫って来るあの大きな馬の身体は毛並みの艶というよりも、粘膜と言う感じで、その粘膜が興奮した馬が半身を振るう度にうねるように波打つの。ずいッ、ずいッと、気づいたら、馬はもう観客席すぐそばで、ぬわっと淀んだ水と土と腐った卵の混じったような生温かい風が観客席に吹いてね。あの馬の息なんだと思う。あの馬のミミズみたいな口からふーッ、ふーッて。腫れぼったくて丸くなった口がうにうにと蠢いてね、ミミズなんだよあの馬はもともと。たぶんね。あのドームはミミズの巣だったんだよ。
母さんはそう言って僕の顔のほうへ勢いよく手を伸ばした、本当に突然のことだったから慌てて振り払ってしまって、でもまた手が伸びてきて、振り払って、僕は身体を翻らせて堤防のほうへ逃げた。ひとつの鉄橋にひと組の母子。後ろを振り返らずに堤防を駆け上がる。堤防のてっぺんに上りきって、鉄橋から工場地帯に続く道の先にある赤みを帯び、ぷっくりと膨れた白いドーム型の建物を視界に捉えた瞬間、ぐッと身体が重くなった。背中から母さんが覆い被さってきて、僕は倒れてしまっていた。それでもなんとか這い出そうとして痛い、痛い、と叫んだり、もがいたりしたけれど、母さんは僕の言うことなんてこれっぽっちも聞かず、僕の肩を掴んですごい力で仰向けにし、僕に馬乗りになった。僕はもう観念してしまって母さんの顔を呆然と眺めることしかできなかった。
馬が帰っていくよぉ。馬は帰っていくよぉ。母さんはふらふら、ふらふら、と上半身を揺らし、唄うように声を震わせた。そして僕の顔にゆっくりと手を下ろした。
母さんは両手で僕の顔を覆うと、親指の爪を使って僕の頬のニキビを押さえた。異物を持ち上げるよう、二本の親指で僕の頬ニキビを摘み、ひっぱりあげる。母さんの爪が食い込んでいくのがわかった。生温かい風。水と土と腐った卵の匂いがした。血がたらりと頬を伝う感触があり、鈍く痛んだ。