意思決定の過程が不明
「楽観主義者になりたい!」のか、「楽観主義者になりたいって言いたい」のか、が分からない。(楽観主義者に限らず、自己の意思による決定の全てに於いて)
仮に自分の意思という認知で、楽観主義者になりたい!と言ったとしても、圧倒的な環境要因と種中心主義過ぎない気がするから、なにを基準にそれを自分の意思だと思ってるんだろう、という疑問が拭えず。徹底的な懐疑が根本にあり過ぎて、具体性がなく思える。
しかも自己の抱えた体積を外に吐き出した瞬間、他者に成り上がるから、全てに実体がないね。ちょっと記録として残しておきたくストーリーにしているという保険もかけつつ、
悩むってさ、行動しない正当な言い訳になれちゃうよね。一見向き合ってるように思えるけど逃げてるだけだサボりたくなったのだ。
プラス、こうして言語化する事でますます身動きが出来なくなると思ったら死にそうになったけど、そういう時は悲しい顔を引っ提げて、友だちに会えばいいのかも。暴論すぎるかな。視野が狭くなっているよ、味方はいっぱいいるよ。自分の身体も然り。