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No.225 僕の本棚より(8)「ひびきあう光の衣・久保田一竹新作展」辻が花染色の世界

No.225 僕の本棚より(8)「ひびきあう光の衣・久保田一竹新作展」辻が花染色の世界

note記事「僕の本棚より」シリーズで、若き日に足を運んだボブ・ディラン、ローリングストーンズ、ディヴィッド・ボウイ、オーティス・クレイなどのコンサートパンフレットに触れてみようかと三階書斎にある本棚の前に立った。

本棚の最下部左隅に、B4サイズ(約26cm×36cm)大判のパンフレットが数冊並び、他にジーグフリード&ロイのショー「Illusion」(No.073)など、いわゆる来日公演プログラムなどもある。その横にある、薄い背表紙に書かれた漢字が目に飛び込んできた。「ひびきあう光の衣・久保田一竹新作展」図録とも写真集とも言えるパンフレットが肩を並べるように収まっていた。

普段の生活の中では引き出されないが、関連した字句に触れた瞬間、昔日の色香と共に現れるような思い出があるものだ。ロックのライブを振り返るまえに、染色工芸家久保田一竹に触れてみたくなった。イタリアの職人さんたちの作る素晴らしい工芸品に関する記事も多いnoteの相互フォロワー「イタリアのモノづくり | ようこ」さん(https://note.com/artigiana_arte)に刺激されたところもあるかもしれない。

久保田一竹(くぼたいっちく)1917年(大正6年)東京神田の生まれ、2003年86歳で逝去。室町時代から江戸時代初期の短期間のみに行われた故に、幻の染め物とも呼ばれる技法「辻が花」を、独自の技巧も採り入れ、現代に蘇らせたことで知られる。1970年代以降に数多くのメディアに取り上げられて、一躍時の人ともなった。その後、フランス芸術文化勲章を受賞、作品の一部がアメリカワシントンにあるスミソニアン博物館に展示される誉も受けている。

久保田一竹を初めて知ったのは、日経新聞文化欄での記事だった。記事の中で「辻が花」の着物の写真があったかどうか覚えていない。その記事を切り抜いたはずで確かめたいのだが、今のところ見つかっていない。その後、テレビ番組の中で、何人かの女優さんとコメンテーターに囲まれた、白の着物に陣羽織オールバックの白髪に眼鏡、穏やかな笑顔の久保田一竹の姿を見ている。

番組内で「一竹辻が花」の着物が紹介されて、女優さんたちの溜息と共にテレビ画面を通しても豪華絢爛な美しさが伝わってきた。展示会が開催されていることも知って、連れ合いの由理くんと「よし、観に行こう」となった。

展示会場で購入した「ひびきあう光の衣・久保田一竹新作展」パンフレットの奥付けを見ると、1986年(昭和61年)3月7日から18日まで、有楽町西武アートフォーラムが展示会場、そのあと10月までに横浜・大阪・熊本・福岡・京都各都市を巡回している。朝日新聞社が主催で、劇作家の高橋玄洋も前書きを書いていた。昭和を代表する有名グラフィックデザイナーの田中一光が装丁を手がけていたのを、今回のチェックで初めて知った。

着物を着た女性も目立つ、満員の賑わいを見せていた会場の有楽町西武アートフォーラムで「一竹辻が花」の作品群を目の当たりにして、由理くんと共に「凄いねえ〜、綺麗だね〜」の連呼だった。ご本人も会場にいらして、太字のマジックペンでサインも書いていただいた。

もちろん伝統ある他の染色技法による素晴らしい作品も多くあるだろうし、優れた染色作家さんたちもいるのだろうが、如何せんその時は日本の伝統工芸にそれほどの知識も持ち合わせてはいなかった。言うなれば、マスコミが取り上げた話題に乗った「ミーハー的鑑賞者」ではあったが、僕にとって「一竹辻が花」は見応え十分で、感動の展覧会の一つだった。

とは言え、「一竹辻が花」に触れたあとも、僕の興味の中心はマジックや映画であり、絵画中心の美術鑑賞や、ロック歌手の来日コンサートに足を運び、サントリーホールの会員となりクラシック音楽にも関心がいくようになったものの、日本の伝統工芸に特に関心がいった訳ではなかった。文楽、歌舞伎や狂言などの伝統文化には触れたものの、僕の本棚に有田焼や西陣織や輪島塗に関する書籍・パンフレットが加わることは無かった。

数百万円、いや、何千万円の値段もつくと言われ、一躍垂涎の的となった「一竹辻が花」に僕たちが触れた翌年の1987年(昭和62年)2月、マネーゲームの象徴とも言えるNTT株の売り出しがあったことを考えると、まさに「バブル景気」が始まった時勢に「一竹辻が花」の豪華絢爛な着物が相応しかったような感慨も起きてしまう。

バブル景気終焉後1994年(平成6年)山梨県河口湖畔に「久保田一竹美術館」が開館されている。ミシュラン観光部門で星も獲得しているそうだ。世の中に名前が知られる以前、貧困に喘いだ時期もあった久保田一竹は、自分の作品が常設される場所を持てたことは望外の出来事であったと回顧している。

しかし、2003年(平成15年)に久保田一竹氏が逝去すると、景気低迷や着物離れなども進み、美術館の来客数も伸び悩み、東京都小平市にあった工房が倒産している。初代久保田一竹亡き後、息子さんが二代目久保田一竹の名前を継ぎ、美術館も営業を続けながら経営再建を目指しているようだ。

今なお世界中で高い評価を得ている「一竹辻が花」に再び触れたならば、若き日と同じ感動が得られるのだろうか?山梨県河口湖畔に建つ「久保田一竹美術館」を近いうちに訪れ、「一竹辻が花」と再び向き合い、数十年の間に己の内面に刻み込まれた皺にでも向き合ってみるのも一興か。

サラリと筆を走らせたサイン


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