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砂場の令嬢たちとダンゴムシ

『人生に必要な知恵はすべて幼稚園の砂場で学んだ』という書名を初めて知ったとき、なんて的確なんだと感心した。幼稚園の砂場は、たしかにいろんなことを教えてくれる。いや、いろんなことではなく、実際はたった一つのことだとも言えるかもしれない。つまり、異なる人間たちが集まると”いろいろ”ある、という事実だ。私にそのことを教えてくれたのは、まさに幼稚園の砂場だった。比喩じゃなく。

私が通っていた幼稚園は、一言で言うとお嬢さま・おぼっちゃま幼稚園だった。今はどうか知らないが、当時は比較的裕福な、小学校受験をするような子どもが多かった。スペイン系のカトリック園で、子どもの面倒を見てくれるのは「マドレ(英語だとシスター)」たちだった。おしゃれな制服があり、女子はバンダースールという帯をゆるく腰に巻かなければいけない。園児たちはその制服を着込み、賢そうな帽子と、水色のかわいいバスケットで日々親に連れられ登園した。モンテッソーリ教育をベースとしているため、日中は”授業”のようなものがあり、工作だの手芸だの、スペイン語だのをけっこうみっちり教えられた。圓歌もスペイン語だったが、私は入園から卒園まで、歌詞の出だしが「バンダースール」であること以外ひとつも記憶できなかった。その30年後、アルゼンチンタンゴに狂った時期にスペイン語の勉強に励んだけれど、その時も幼稚園のときの記憶が浮上するようなことはなかった。かろうじて思い出すのは、りんごとぶどうのカードを見せられたことくらいだ(マンサーナとウバ)。そして、周りの令嬢・子息たちの「いい子」な姿。年相応に元気な子どももいたが、ほとんどは育ちがよく、大人びていて、賢く日々のカリキュラムをこなしていた。クリスマスにはもちろん聖劇を行う。年長時に、マリア役とヨセフ役になるのが最大の栄誉だった。

私がそんなところに通っていた理由はもちろん、私がお嬢様だったからではない。我が家は別に裕福でもなんでもなかったし(むしろ逆)、洗礼を受けたクリスチャンというわけでもなかった。ただ母が無邪気に、この幼稚園の制服を可愛いと思ってしまったのである。のちに母は「未樹をあそこに通わせるべきじゃなかったね」と言っていた。

そんな幼稚園の砂場である。年中だったか、年長だったか。私はその日も、スコップか何かで砂を掘り返し、丸まったダンゴムシを見つけてこじ開けるのに余念がなかった。周りにはクラスメイトの女児が2、3人。もちろん彼女たちはダンゴムシをこじ開ける遊びに熱中したりはせず、大人っぽく雑談をしていた。その中で、女児Aがふとこう言った。

「うちって大きいから、トイレとお風呂が二つずつあるんだよ。お客さんが来たときに使うの」

トイレと風呂が二つずつ? ボロい3DKのマンションに住む私には、その構造がとっさに理解できなかった。トイレと風呂が複数ある建物を、商業施設以外で見たことがなかったのである。しかし私がぼんやりしている間に、女児Bがすかさずこう言った。

「ふうん。うちは3階建てで、地下にも部屋があるけどね」

なんとも言えない空気になった。私は状況が理解できずに黙っていた。しかし、見つめ合う彼女たちの顔を地面に近いところから見上げながら、急に察した。

この子たち、家の豪華さで張り合っているんだ! 

のちに「自慢」「マウンティング」「優越感」といった言葉をあてはめにいくことになる何かを、その時砂まみれになりながら、私はたしかに彼女たちの間に感じたのである。

そして、自分の立場も瞬時に理解した。うちはトイレと風呂は一つずつしかないし、地下あり3階建ての家にだって住めそうにない。そういえばクラスメイトの家は、どれも私の家より大きかったりやけに豪華だったりする。彼女たちと私とは、何か根本的な設定が違うらしい……。

当時4、5歳だった私が、こんな言葉や論理で考えたわけではない。ただ直感的な、イメージとしか言いようのないものが私に耳打ちしていた。彼女たちの間で共有されている緊張感が、私とは無関係であることを。そしてそれにより、どうも私が彼女たちよも相対的に”下”の存在らしいことを。AちゃんもBちゃんも、私のことは歯牙にもかけていなかった。

言うまでもないけれど、同じ幼稚園に同じ額の月謝を払って通えている時点で、上の下だのと言っても引いて見ればそこまでの差ではない。ただそれでも幼かった私にとって、それが初めて感じる”格差”だったのはたしかだ。社会のありとあらゆる要素に対し、あらゆる尺度と規模で無限に見出すことができるものの見方を、幼稚園の砂場は私に示唆していた。

この時の会話以降、私はなんとはなしに、「周りのみんなとの違い」が気になるようになった。明らかに自分はこの空間に溶け込んでいない、とよく感じていたからである。

そもそも私は、お受験をするような園児たちに比べて圧倒的に行動が子どもっぽく、空気のよめない幼児だった。注意欠陥と多動の塊で、言語能力が達者なわりには大人の言うことをあまり聞いていないため、マドレたちをよく困らせた。ADHD的なこだわりと無神経さにより、クラスメイトの女子たちの一部にもしっかり嫌われていた。

クラスのボス的な女子とそのとりまきに、園庭まで呼び出されたことがある。彼女は私を園庭の隅の隅まで連れていくと、植え込みの木の枝に生えた若葉を指差し、「なんでこの葉っぱだけ、他の葉っぱより薄い緑色かわかる?」と質問してきた。取り巻きたちも腕を組んで私を見つめている。私が何のためらいもなく、無邪気に「わからない」と言うと、ボスは呆れたように言った。

「あのねえ、私たち、みきちゃんにいじわるしてるんだよ。わかる?」

わからなかった。葉の色の違いの理由以上に。説明されてなおぽかんとしていたため、女子たちは呆れてその場を去った。万事がそのような幼稚園生活だった。

母も似たり寄ったりだったらしい。同学年のマダムたちと交流しては、お上品で不毛な会話に馴染めずにいたようだ。そりゃそうだろう。私が砂場で聞いた女子同士の会話の、元ネタとなる会話がそこでは繰り広げられていたに違いない。たとえ4、5歳でも、子どもはしっかり親の言動をトレースする。そしてそのトレースから価値観も育まれていく。他の人よりも広い家に住むことはひとつの勝利であるとか。

私も私なりに親の言動をトレースし、そこに自分独自の行動を付け足していたはずだが、それは周りの方向性とはどうも著しく違うらしかった。私は虫をいじり、先生の指示と無関係に折り紙を折り、親や家の豪華さについては何の認識も持たずに漫然と遊ぶ子どもだった。しかし他は、全員ではないにせよ、おおむねきちんと学び、習い事なんかにも精を出し、幼稚園のうちに小学校低学年レベルの勉強にまで進出するような世界を生きていたのである。

結局最後まで、私はその幼稚園に馴染めなかった。ただ、キリスト教について簡単な知識を得られたことや、”格差”についての意識を持ったことは、その後の私のものごとの捉え方や考え方をつくったと思う。私は自分を含めた人々の会話をよくよく観察する子どもになった。誰かが誰かに勝とうとしている瞬間や負けたと感じているらしい瞬間、あるいはそうした競争意識や感情にひもづかずとも、自然とそこに現れてしまっている前提条件の違いなどににいちいち注目し、内心で反応した。パルスをチェックするかのように。もちろん自分についても同じだった。会話をしながらその細かな部品を確認し、終わったら全体像を見直し、どこで何が起きていたかを考えずにいられなくなった。

9歳のときに父が死に、経済的に困窮すると、自分がまたそれまでとは違う所属を持ったことを察した。憐れんでくる人もいたし、好奇心をむき出しにする人もいた。どうやっても届かなくなってしまった領域があることも感じた。ダンゴムシをほじりながらAちゃんとBちゃんを見上げていたときとは違う、もっと自分にとってリアルで存在感のある”違い”が、自分の周りに次々発生するようになったのだ。

そしてそのメカニズムが、かなり複雑怪奇なものであることも知った。

中学三年生のとき、「母子家庭推薦で行ける高校もあるかもしれないらしい」とクラスメイトに何気なく話したら、ものすごくいまいましそうな目で睨まれた。「小池さんはいいよね。母子家庭推薦で楽に高校に行けるんだから」と彼女は吐き捨てるように言った。「いいよね」という言葉に、私は驚き固まった。彼女から見ると私は得をした、ずるい人間なのだ。たとえ父が死んでいても、そこは埋め合わせにはならないのだ。少なくとも彼女にとっては(結局私は、高校には受験で行ったのだが)。

そんな驚きを繰り返しながら、私は大人になった。自分がみんなと違うのではなく、みんながみんなと違うのだということを知った。無限の差があり、無限の立場があった。見方によっては、私は貧しく哀れな存在にも、甘い汁を吸う恵まれた立場になることもできた。幼稚園の砂場で見た光景は、いつしか何百倍もの規模と複雑さをもって、私の人生そのものになっていた。

砂場が教えてくれたこと。異なる人間たちが集まると、いろいろなことがある。そしてもちろん、自分自身もそのいろいろを膨らませる当事者である。私はAちゃんとBちゃんの会話を眺めているだけの無邪気な傍観者ではなく、その立場を二人に問われ、弄んでいるダンゴムシに告発されることもある関係者なのだ。昔も今もずっと。

その事実は私の現実の何をも助けてくれない。時には絶望的だ。でも、人の生きる世界と自分の世界の違いに気づき始めたあの瞬間のことを思い出すと、私はなぜか妙な力が湧いてくるのだ。人間ってすごい。全員が全然違っていて、その違いをぶつけ合っていて、それが過去何十億、何百億種類も繰り返されてきたなんて気持ち悪いくらいすごすぎないか。

そのすごさに惹かれ、時に嫌悪し、妥協したりなんかもしながら、私は今日もある種の砂場を生き続けている。いまでも家の広さについての自慢が聞こえてくるし、時には私がしてしまうこともある。私の手の中のダンゴムシは、いつ私に復讐しようかと策を練っている。相変わらずみんなと馴染めている気はしないし、きちんと教えてもらわないと嫌われていることに気づかない。そうしたことの羞恥心や違和感を、神様に祈る習慣のない私は、書くことでしか表現できないでいる。砂の上から見えるもの触れられるものについて書き、語り、考えることで、わからないことをもう少しわかるようになりたいと思う。

スペイン語だけは、昔より少しわかるようになった。


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小池未樹
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