Also bin ich.


「在る」とはなんだろうか。
それは目に見えるということを指すのだろうか。
それは手に触れられるということを指すのだろうか。
もし、目に見え、手に触れられるものだけが絶対なのであれば、客観的実在を足がかりにしている科学に対して背徳を示す必要もない。
科学とは人類史上最も成功した思考様式であり、それが社会にもたらした恩恵は計り知れない。危機に瀕した世界は真っ先に彼女(Wissenschaft)に救いを求めた。そして彼女自身、その要請には幾度となく応えてきた…。あるいは、それは我々日本人にとって明治の動乱期に不羈独立を実現するための決定的な手段であったこともまた重要な史実である。盲目的にその価値を信じることはいかにも容易いことであり、そこは言わば安全地帯なのである。

しかし私はどうもこの安全地帯に安住してはいられない。ヴェーバーの言う神々の闘争の場へ身を投じる必要性を感じるのである。

「何をなすべきか。いかに生きるべきか。こうした、僕たちにとってもっぱらそれだけが大事な問いに、学問は答えを与えないのだから、学問は無意味だ。」

科学と言えどそれは学問の一つであり、それ自体は自身の価値について語ることもできなければ、ましてや証明することなど到底できないのである。科学の力を信じたいがゆえに、科学の絶対性を疑うという逆説的で危うい論考に私は身を乗り出さなければならないのである。

実在というものについて冒頭に掲げたような絶対性(いわゆる素朴実在論)を主張するのであれば我々は決して自由や意志というものを持ち得ない。

科学はこの世界を唯物的に記述する。そしてそれは我々の思考の源泉である脳味噌も例外ではない。科学の言葉で言えば、脳はニューロンの集合体である。そして脳の活動と同義とみなされるニューロンの反応は量子揺らぎが支配する化学反応に過ぎない…。
果たしてこの描像において我々は本当に意志を有すると考えていいのだろうか。
量子論に支配された統計的な世界でしか我々は生きることはできないのだろうか。
そして、もし仮に量子揺らぎを支配する"隠れた変数"があったとして(ベル不等式の破れによりその存在は否定されているのだが)、その変数が随意的であることなど想像できようか。
さらに、その変数が存在したとして量子論が決定論的になれば、ここでもまたニュートン力学が哲学界から受けた批判-ラプラスの魔物が支配する世界に堕する。
素朴な実在論においては、我々が意志を持つことについて二重に困難を生じるのである。

ペンローズ先生によれば、現象として量子論から古典論へ移行するときの
計算アルゴリズムとして記述できない発展に、概念世界が現実へ顕現するような意識や心との過程が生まれると考えられている。量子論と古典論のそれぞれはいずれも可計算的であるが、ゲーデルの不完全性定理による計算不可能なものの存在の示唆がこの主張を支えている。しかし、これでもやはり臓器としての脳の唯物的記述を乗り越えることはできていないと思う。


神はかつてモーセにこう伝えた。
「私の名はあってあるものである。」と。

我々はいつの間にか実在というものを矮小化させてきてしまったのではないだろうか。
何より私は実在について素朴に捉えている人間の一人だったのだ。ニーチェはこのような粗野で勤勉な人々には機械工がうってつけだと批判している。(何を隠そう私はまさに彼が皮肉った機械工の一人なのである!)
どこから始めるべきか。
それはもう決まっている。例によってあの場所である。

ここで私は思惟こそが実在の本質であると捉え直す。

例え自然法則自体を唯一絶対のものとして考えなくても、経験の可能性さえ規定すれば、私が知覚する現象は経験的判断として命題の資格を得る。そして、ヴィトゲンシュタインのように科学をこのような真なる命題の集合であると考えるならば、科学が現在持っているような構造を破壊しなくとも、相対化して扱うことが可能になる。
つまり〈私〉は科学による唯物的記述を免れる。

ところで経験とはいかにして可能であろうか。この問いはカントに答えてもらうのが良い。我々は感性による直観と悟性による認識を有する。〈私〉の内感に立ち現れる現象を因果律に従って綜合していけば良い。そしてこの因果律というのはアプリオリな法則であるから、個々の知覚はてんでバラバラになることなく、経験という一定の客観性を持ったものにまとめることができるのである。-これがカントの唱える科学の基礎である。

実在の重心をいわゆる”モノ”から思惟へと移行させることは、客観性を失うように思われて足がすくむこともあろう。
しかし、そんなこと恐れるに足りないと私は考える。
なぜなら、カントの科学観に基づけば客観的判断といえどその判断の過程は主観に支配されざるを得ず、予め固定化された主客二元の区別など意味を為さないからだ。
或いはもし、主客二元が厳格に区別されていたとしても、その主観的世界を描き出そうと、その境界線を跨ごうとしてきた文学や芸術というものに、私は大いに励まされてきたのである。

ここは知恵の山脈で、この登山道には多くの危険が潜んでいるに違いない。しかし私はまだ歩を進める。そして、今日も私は考える(Ich denke)。


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