Katsudouteki Jiritsu

 ハンナ・アレントは『人間の条件』で人間の活動的生活における3つの条件を取り上げた。
1.労働:生命維持活動としての生産性の提供とその消費。
2.仕事:工作人として世界へ永続性・耐久性を提供していくこと。
3.活動:人間として多数性を持つ公的領域へ自身の正体を暴露していくこと。
https://bookmeter.com/books/569162

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 現代社会において,上記3つの条件のうち労働が最上のものとして讃えられている。社会全体として労働を称えるあるいは労働を維持するための駆動力は,とてつもないエネルギーである。産業社会を構成する一員として,この無機質なエネルギーにはとても抗えるものではないことは,この1年と数ヶ月の生活で嫌というほど痛感している。
 また,私の労働生活は世界に対して一定の耐久性を持つ“もの”を送り出していく「仕事」としての側面もまた持つ。仕事の成果は,この地球を人間の住処として維持していくための耐久性が求められる。かつての私にとっては,この住処への改変は大きな魅力であった。
 しかし,工作人としての活動的生活も,労働過程に巻き込まれてしまっては巨大な生命維持のための消費活動に堕してしまう。この過程においては,生産性がその価値を決定するため,価値計測の対象として一人ひとりの人間は同一性を持った単位として看做されざるを得ない。

 このように個人を取り替え可能な部品のように扱う姿勢があたかもこの世で最も尊ぶべきものであるかのように持て囃すのは危うい。
 活動が必要なのである。
 労働と仕事の生活では,同一性がその価値とほぼ同義であるため,多様な特性を持つ人間の多数性としての条件を全うすることができない。多くの人間が存在する中で,他者との違いを見失った先にあるのは全体主義によるディストピアであることは歴史が証明している。戦前・戦後をユダヤ人として生きた著者の言葉にはその背景が見え隠れする。


天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず

 良識とか理性と呼ばれるものは全ての人に等しく与えられたものである。理性に基づく判断・行動は,全ての人が持つ権利であると同時に果たすべき義務なのである。だから無思考で全体主義に飲まれてはいけない。

 活動は労働・仕事に優る至上のものなのだろうか。アレントは明示しなかったものの500ページを超える彼女の認識の投影はそれを示唆する。

 活動によって自分の正体を暴いていくには,結局自分が何者であるのか知っていなければならない。
「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」
 キリスト教教理に反発したゴーギャンでさえ作品のタイトルにする程のこの問いは,西洋人に限らず人類にとって深く心に根差した問いなのであろう。
 しかし,一体これまで何人の人がこの問いに対する正確な答えを得てきたのだろうか。我々は自身のことについて何を知っているというのか。私が昨晩見た星空の輝きはどんな言葉に尽くそうとも,他人に直接その輝きを伝えることができない。これと同様に,自分という人間が何者であるのかということも全く語りうるものではない。そしてそれは,ともすれ無意味な行為ともなりかねない。

語り得ぬものについては沈黙せねばならない。

 ウィトゲンシュタインがそのように口にしたとき,語りうるものを語り尽くす裏で語り得ないものの存在を許した。そして同時に一切のナンセンスを超えたところに語り得ぬものがあることを指し示しているのである。

 労働という活動力が,古代ギリシャで最も尊ばれた観照的生活の価値を転覆させ,最上のものに上り詰めたのは,デカルト的懐疑によって生命的活動がその地位を得たためである。思惟が蹴ることができるものさえ「魂」の世界へ融解させてしまった。

しかし,
あらゆるものに懐疑の目を向け自身の存在さえも疑ったデカルトの方法は,この世界における唯一の基盤を我々にもたらす。この基盤を元にカントはコペルニクス的転回を果たし,“もの”の観念論的融解を食い止めた。カントは,我々の認識に限界線を引くと同時に,我々人間の体が他人と異なる程度にしか理性の構造が異ならないことを前提にすることで,この世界を我々が多数者として共有できるものに留めることができることを主張している。そして,コペルニクス的転回を果たした世界に求められると同時に許されるのは,他律ではなく自律による行動なのである。

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 ハンナ・アレントが暗に訴えた労働的価値に対する惑溺への警鐘は,我々に対する活動の要求を意味している。活動とは,誰かを食わすためのものでもなければ,世界をソリッドなものに保つ努力でもない。そのため,活動というのは脆く儚いものであるが,その実存はおそらく理性により与えられる。私はそう信じている。

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