Kusa no Hana

「この病は死に至らず」

2.

キリスト者のみが死に至る病の何を意味するかを知っている。かれはキリスト者として自然人の知らない勇気を獲得した。彼はより恐るべきものを恐れることを学ぶことによってかかる勇気を獲得したのである。

2.

汐見茂思という男は果たして赦されたのだろうか。

が、僕に言わせれば、僕が自分で神を棄てたんだ、僕の自分を靱くしたい意志が、僕にそれを選ばせたのだ。決して僕が負けたわけじゃない。

1.

ーー何も信じない。

1.

彼は生涯、信じることを拒んだ。

彼は全世界から全存在から不当な取り扱いを受けている人間のままでいたいのだ。だからしていまはかえって彼が自分の苦悩を手もとにもっていて誰もそれを彼から奪い去らないということこそが彼には大切なのである、ーーそれでないと彼が正しいということの証拠もないし、またそのことを自分に納得させることもできない

2.

罪とは、人間が神の前に(ないし神の観念を抱きつつ)絶望的に自己自身であろうと欲しないことないし絶望的に自己自身であろうと欲することの謂いである。それ故に罪は弱さないし強情の度の強まったもの、言い換えれば絶望の度の強まったものである。

2.

そう、キェルケゴールの定義によれば「絶望して強情にも自己自身であろう」とした汐見のそれは罪なのである。
しかし、汐見は罪人だったのだろうか。
私にはそうは感じられないのである。
Kosmopolites(コスモポリテース)な観念をもって戦争の加担者と成り果てることにあれほどまでの嫌悪感を抱いていたあの彼が?
もし彼が神の赦しを得ることのできない罪人のままでいたのなら、彼の死を前にして流れた私の涙はいかに説明されるのだろうか。


どうぞわたくしをおゆるし下さいませ。

1.

汐見が愛した女性:千枝子が訃報を受け、認めた手紙の一文。
その最後に記された祈りは、文脈を離れ、私が彼の救済を願う心に重なる。

彼は赦されたのだろうか。
しかし、これは全く人智を超えた次元の問である。
論証できるたぐいのものではない。
悟性活動によって答えが与えられたとして、それはどんな意味を持つのだろう!
そもそも答え得ないものに対して、わざわざ誤謬を犯してまで手に入れたその答えの価値とは!
……私の祈りは、論証によっては成就されない。
そこでこの試論の欠損を補うために、いくつかの想像を挿し挟むことは許されてよい、というのもこれは私の一つの心情とも関わり合うものであるのだからだ。


何度も言うように、彼は強情にも自己自身であろうとした。

僕の孤独も無力かもしれないが、少なくとも神なんかに頼って、この神が日本を救えと命令したなんぞと考えるよりは、百倍も正直で人間らしいと思うのだ。神がいたら苦しまなくても済むかもしれないのに、神がいないからこそ、僕は人間らしく苦しむことが出来るのだ。

1.

どういう理由からかは結局明かされることはなかったが、彼は一度自殺を図ったことがあった。
しかし、最後の決心がつかず未遂に終わる。
そして、その後すぐに洗礼を受けたという。

いやいや、その時ちょっと信じただけだ。洗礼を受けたら信じられると思ったのだ。僕は誠実に人生を歩いてきたつもりだけど、あのことだけは失敗だった。

1.

失敗とはなんだろうか、ーーおそらく罪の自覚である。
ここに私は2つの想像を挟んだ。
・彼がわずかにでも神を信じたそのときに、本当の罪を知ったであろうということ。
・罪を知ったときの絶望は人生の失敗とも言えるほど人の心を揺さぶるものであること。
このとき彼は本当に恐れるべきものを知ったのだろう。
もう一度、キェルケゴールの定式化に戻ろう。
絶望こそが罪でありそれは死に至る病である、そしてそれは死よりも恐るべきものである。
汐見が失敗と言ったそのことは、おそらく肉体の死の恐怖さえも超越してしまうような恐怖=罪に目を開かれたことなのかもしれない。

君、誤解しちゃいけない、僕は決して安っぽいヒロイズムで手術を頼み込んだのじゃない。万一、僕が癒るとしたら肺摘以外に方法がないのだ、もし癒らないのなら、むざむざ死ぬよりちっとでも医学の進歩に役立ったほうがいい。君だってそう思うだろう。

1.

生への望みと贖い。
彼は真の信仰への道を前にして、贖いの決断に踏み切った。私はそう思いたい。手術という答えは、生きることも赦されることも一切を神に委ねる最期の決断だったのかもしれないと。

正しく哲学している人々は死ぬことの練習をしているのだ。そして、死んでいることは、かれらにとっては、誰にもまして、少しも恐ろしくないのである。

3.

汐見は赦されたと私は願いたい。
彼の言葉が、行動が、思いが私の心にまだ生きているのだから。
それはまるで彼の心に藤木が生き続けたように。


References

  1. 福永武彦『草の花』

  2. キェルケゴール『死に至る病』

  3. プラトン『パイドン』

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