Kusa no Hana
汐見茂思という男は果たして赦されたのだろうか。
彼は生涯、信じることを拒んだ。
そう、キェルケゴールの定義によれば「絶望して強情にも自己自身であろう」とした汐見のそれは罪なのである。
しかし、汐見は罪人だったのだろうか。
私にはそうは感じられないのである。
Kosmopolites(コスモポリテース)な観念をもって戦争の加担者と成り果てることにあれほどまでの嫌悪感を抱いていたあの彼が?
もし彼が神の赦しを得ることのできない罪人のままでいたのなら、彼の死を前にして流れた私の涙はいかに説明されるのだろうか。
汐見が愛した女性:千枝子が訃報を受け、認めた手紙の一文。
その最後に記された祈りは、文脈を離れ、私が彼の救済を願う心に重なる。
彼は赦されたのだろうか。
しかし、これは全く人智を超えた次元の問である。
論証できるたぐいのものではない。
悟性活動によって答えが与えられたとして、それはどんな意味を持つのだろう!
そもそも答え得ないものに対して、わざわざ誤謬を犯してまで手に入れたその答えの価値とは!
……私の祈りは、論証によっては成就されない。
そこでこの試論の欠損を補うために、いくつかの想像を挿し挟むことは許されてよい、というのもこれは私の一つの心情とも関わり合うものであるのだからだ。
何度も言うように、彼は強情にも自己自身であろうとした。
どういう理由からかは結局明かされることはなかったが、彼は一度自殺を図ったことがあった。
しかし、最後の決心がつかず未遂に終わる。
そして、その後すぐに洗礼を受けたという。
失敗とはなんだろうか、ーーおそらく罪の自覚である。
ここに私は2つの想像を挟んだ。
・彼がわずかにでも神を信じたそのときに、本当の罪を知ったであろうということ。
・罪を知ったときの絶望は人生の失敗とも言えるほど人の心を揺さぶるものであること。
このとき彼は本当に恐れるべきものを知ったのだろう。
もう一度、キェルケゴールの定式化に戻ろう。
絶望こそが罪でありそれは死に至る病である、そしてそれは死よりも恐るべきものである。
汐見が失敗と言ったそのことは、おそらく肉体の死の恐怖さえも超越してしまうような恐怖=罪に目を開かれたことなのかもしれない。
生への望みと贖い。
彼は真の信仰への道を前にして、贖いの決断に踏み切った。私はそう思いたい。手術という答えは、生きることも赦されることも一切を神に委ねる最期の決断だったのかもしれないと。
汐見は赦されたと私は願いたい。
彼の言葉が、行動が、思いが私の心にまだ生きているのだから。
それはまるで彼の心に藤木が生き続けたように。
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