Schönheit
わたしは生きることを通じて世界を経験する。
生が美しいとは、経験の世界に美が満ちているということである。
一方、美は相対的ゆえ美しいもので満たされた世界は何ものをも美とすることはできず、美の表徴たる芸術も存在しえない。
ここに矛盾が生じる。
我々は世界を美しいもので満たすことを望む一方で、十分に美しい世界においては芸術を見出すことができない。
このような世界を我々は望むだろうか。
ゆえにこう問われるのである。
「もし生が美しいものであったなら、芸術は存在しただろうか?」
この問いに答えるためにわたしは、美・芸術にの定義について再構成し、これらと生との関係について考察する。そしてこの論考により生の美しさと芸術の存在が両立する世界像を提示する。
==
まず以下について問おう。
「美とは相対的なものであるだろうか?」
わたしは感覚的にこの言葉を使うことができる。それは、ある景色に、ある女性に、ある言葉に、あるメロディに、そしてある絵画に対して用いられる。つまりわたしが知覚したものに対してある評価を与えるときにこの語を用いるのである。この用法において美という言葉は他の評価語(高い・深い…)と同様、相対的なものに違いない。
しかし、わたしの浅学のために深く立ち入ることはできないが、2000年以上も前から多くの思想家はこの言葉の探究にはとりわけ特別な意味を感じていたようである。つまり単なる評価語の意味を超えた美というものは人類の興味の対象なのである。
そこでわたしはさしあたってこの語に以下の定義を与えたい。
「美とは合法則に対する快である」
例えば宇宙の法則を統一的に記述する方程式があったとすればどうだろうか。わたしは間違い無くこの方程式を「美しいもの」と表現するに違いない。天体や原子の法則の多くは、被造物に潜む大いなる意志の力に驚嘆した物理学者たちに見出されてきたものだ。
”ある法則に適合しようとすること”これを美の定義として拡張的に考えることはやぶさかではなかろう。
==
続いての問いはこうである。
「芸術とは美であるのか?」
ベンヤミンによれば芸術の価値には二つのアクセントの置き方がある。
展示的価値と礼拝的価値である。
現代において芸術といえば、例えば落合陽一氏のメディアアートや印象派の絵画が想像されるであろう。これらの幻想的な視覚体験の提供はまさに展示的価値に基づくものであり、評価語としての美が極めてふさわしい様相をなしている。
しかし、19世紀ー写真技術の登場を機に、芸術の機能は大きく変容している
写真や映画などの「複製芸術」が、展示の可能性を拡大し、それまで芸術が持っていた一回性或はそれが現にそこに存在するという価値(=アウラ)を駆逐した。フランス革命によって人類は自由と平等を獲得し、この流れで登場した複製技術が芸術をも民衆に開放したことは歴史の必然であるようにも思われる。
しかし、今や我々は一つの困難の前に立ち、また美という語に対して評価語を超えた意味を確信しているのであるから、芸術に対する本来の姿を一度想起してみることで、この困難の解決を図ることは必ずしも歴史への反逆は意味しない。
礼拝的価値を持った芸術というものを考えてみよう。
例えば中世キリスト教絵画はその好例であるように思われる。それは当時聖書を文字で読むことができない多くの者に対し、その福音を述べ伝える役割を果たしていた。このような役割のために芸術に求められるのは単なる視覚的美だけには止まらない。礼拝的価値にあっては人々の信仰心を掻き立てねばならず、それは善きものの示唆或は探究に他ならない。わたしがこれらの絵画を前にしたとき、視覚的な美のエネルギーもさることながら、この世にあっては決して描き出せない存在をその背後に感ずるのはそのためである。
つまり芸術の礼拝的価値とは信仰心の喚起であり、これは脱魔術化した現代においては善への志向と読み替えてもよいものである。
こうして我々はある地平に達する。
「芸術とは善きものの探究である」
ここでは、例えば善を己を律する道徳法則と解すれば、この志向性は合法則性をも内包することになり、美の定義とも合致する。
==
以上の論考により我々は、美と芸術に関し認識を新たにすることに成功した。美とはある法則を前にしてこれに適合することであり、芸術とは善きものの探究である。
それではもう一度、初めの問いに戻ってみよう。
「もし生が美しいものであったなら、芸術は存在しただろうか?」
まずもって、生すなわち経験の世界を美で満たすことはできるだろうか、否、美とはある対象を指すものではなく、実践的な態度である。生の美しさとは、自らの生において自然、道徳或はその他あらゆる法則を探究し、それを志向することである。そして芸術とはそのような探究者たるわたしの志向性をさらに刺激し、支えるものである。
ゆえにわたしはこのように答えることができよう。
「生が美しいほどに、芸術は存在するどころか、むしろその価値を増す」と。
Inspirated by