1000文字思考 その35 「鼻くそを右から左に送るだけ」
朝起きると、右の鼻が異様にむずむずした。
普段そこにないものがでんと鎮座しているのが直ぐに分かった。
枕元に置いてあるティッシュを1枚取り、”こより“型にして右の鼻の穴にお邪魔した。
大きいものが取れた。スッキリした。
するとまた直ぐに、今度は左の鼻がむずむずとし始めた。なので右の鼻に使ったこよりを左の穴にもお邪魔した。
何も取れなかった。そればかりか、先程捕まえた大きいものが見当たらない。
左の穴にお引越ししてしまった。
私としたことが、右の鼻で暮らしていたものを処理しないばかりか、左の穴に移しただけなのだ。
私はこういうことを度々やってしまう。
私の家に客人が来る時、散らかった状態をなんとか誤魔化すために「原因」を部屋の右から左に移す。片付けられてはいない。あくまでも散らかりの原因を移動させているだけだ。
自分が何か努力して成し得た時、それは成長ではなく「コツを移動させただけなのでは」と感じる。
アルバイトで最初は右を左もわからず(ややこしいが)失敗ばかりで、でも経験を積むにつれ簡単にこなせるようになってくる。これって成長ではなく、「やりにくい方法」から「やりやすい方法」へ仕事を移動させただけなのではないか。
ホームランが打てない野球選手が努力をしてコツを掴み、ホームランが打てるようになったらそれはパワーや経験値よりもまず「ホームランが打てるスイング、足の運び、マインドに移動しただけではないか」。
なんか寂しくなってきたな。
僕が何を頑張ろうとどれだけ考えようと、「出来ない場所」から「出来る場所」に移動して、いつかは「生きる場所」から「死ぬ場所」へ移動してゆくだけだ。
自分の見た目が嫌いでお手入れをしっかりして、美容整形手術をして仮に美しくなったとする。
そうすると、美しくなった以後に出会った人は「元々この人は美しいのだ」と感じるに違いない。今、美しい場所にいる美しい人は美しい人であるのだ。
人間はみな平らである。
そういえば鼻くそも、僕が左へ移動させたのならば「左の鼻くそ」だ。生まれ育ちは関係ない。
どれだけ胸の内に右の鼻の思い出を秘めていようとも、右の鼻から見える景色に心打たれようとも、今いる「左の穴の鼻くそ」であるのだ。
鼻をほじり終わり、布団を畳んで居間に出てテレビをつけるとワイドナショーに前園真聖が出ていた。
前園真聖もまた、ワイドナショーに出られない場所から出られる場所に移動しただけなのだ。