8月のまとめ|2018.8.27

+ネット記事から

ネットニュースその1。
最近、古市憲寿氏の著作を読んでいる。メディアへの露出が多い方なので、その発言には批判や非難なんかをよく見かけるけど、私としては自分の感じている違和感とか疑問を言語化してくれている。この記事を書いた山田ゴメスさんも「たぶん私は古市氏のモノの考え方や自己演出の仕方が、わりと好きなのかもしれない。」と言っていて、この点共感。

さて、おじいちゃん論。古市氏は「他人や社会に興味を持たず、自分語りや昔話に終始する人」を「おじいちゃん」と定義付けたのだという。さしずめ「興味が島宇宙化して、それに満足している人」のことがそれに当てはまるのかな、と私は理解した。

自分の理解の範疇で満足する、ということは、安定を志向して争いを好まない、ということにも繋がってくると思う。“「まあ、こんな感じでいいかな」と思った瞬間、誰も(若い人でも)が「おじいちゃん」になってしまう。”という部分を山田氏は引用しているけれど、まあ今の日本社会って老若男女問わずそんな感じの人多いよな〜、と思うのであった。(私もその一人かもと思ってゾッとした)

私は卒業研究で「プロオーケストラにとっての改革は『他者』との対話が不可欠だ」ということを書いた。フィールドワークとインタビューを軸にしながら、文献調査を用いて論を立てたのだけど、この記事を踏まえれば、日本のプロオケはそのほとんどが「おじいちゃん」なのかもしれない、と頭をよぎる。「他者」や「社会」の関わりなしに成長しない、ということは、どんなことでも、普遍的に言えることなのだと思った。


ネットニュースその2。
海外の自由な雰囲気の中明るく育った帰国子女の娘が、日本の学校で生活するようになり友達の同調圧力に接し、好きなファッションで学校に行くのを嫌がるようになった。これに対し親はどのような対応をしたらいいのかという母親からの投稿。

鴻上氏はこの娘さんのぶつかった「同調圧力」という問題を日本の「宿痾(しゅくあ)」とし、「日本そのもの」であると言う。

そして鴻上氏は以下のようなアドバイスをする。

 敵は「日本」ですから、大ボス中の大ボスです。正面から切り込んだら、ほぼ間違いなく負けると思います。
 対抗する手段は二つ。ひとつはフィールドを変える。つまり、比較的同調圧力の少ない組織に移動するのです。アメリカンスクールとか自由な校風が自慢の私立、帰国子女や外国人生徒が多い学校などです。それが金銭や地理の関係で現実的に無理だという場合は、戦略的に戦う道を選びます。
 学校には、同調圧力にあわせて地味な服で登校します。その代わり、親しい友達とのお出かけや放課後は自分の着たいおしゃれな服を選ぶのです。 

2つ目の手段を読んだ時、正直私は「ええ、結局、同調圧力に屈するってこと?問題から逃げるってこと?」と思ってしまった。でも、これって屈したわけじゃないんだよなあ、と全部を読んで思った。これは、問題を「迂回する」ということなんじゃないか、と。

 僕は「同調圧力の強さ」が大嫌いでずっと問題にしてきました。演劇の作品にもしたし、エッセーにも書いたし、小説にもしました。劇団を35年ぐらいやっていますが「どうしたら『同調圧力』を低く押さえられるか」という試行錯誤を毎日しています。それでも、「なぜ日本はこんなに『同調圧力』が強く、『自尊意識』が低いのか」は完全には解明できません。僕は今も考え続けています。ただ、どんなふうに「同調圧力」が強く、どんなふうに「自尊意識」が低いのかはずいぶん分かってきました。
 つまり、敵の様子が分かってきたので、戦い方を考え出せるようになりました。依然として、なぜこんな敵が生まれ、こんなにも凶暴なのか(なんか、ファンタジー物語の悪魔誕生の由来みたいですが)はよく分かりませんが、戦い方は分かってきたのです。

なるほど、鴻上氏は「同調圧力」について考え続けてきた人だったのか、と。そんな鴻上氏だからこそ言える、日本の宿痾を賢く「迂回する術」だなあ、と思った。投書した「同調圧力」に戸惑う家族は、これを読んで少しでも自尊感情が回復されただろうか。

私は何となく、課題や問題を「解決しないでうまくやること」を「逃げ」だと思ってしまう節がある。でも、これは「逃げ」なんかではなくて、賢い「迂回」だ。この日本の社会を生きて行く為に、自分自身の「立ち回り」を変わることなのだと。

「同調圧力」うーん、うまく「迂回」していきましょう。

+行ったところ +考えたこと

三条寺町のART COMPLEX 1928で『ギア』を見る。仕事関係で招待券を頂いたので鑑賞。客層は外国人観光客らしき人が6割ぐらい。ノリがすごくよくて上演中笑い声や歓声が絶えない。演者が手拍子を煽ると、即割れんばかりの手拍子や口笛でノる。最初に始まる時、静かな場面で結構ざわざわしたので鑑賞マナー悪い人多いのかな〜いやだなあ〜などと思ったのだけど、中盤に差し掛かる頃には気にならなくなる。というより、静かに見ていた「鑑賞マナーのいい(と思っている)」私は、場を見渡して周りと比べてみると、何だか白けているようにも思えてきて、パフォーマンスをみる時の「鑑賞マナー」「あの場で求められていた鑑賞者の振る舞い」とは一体なんだろう、とふと考えてました。

こんなことを考えていたところに、アイドルグループNEWSの増田貴久氏が、一部ファンの鑑賞マナーに対する見解と考えを吐露した文章を読む。増田氏は7月から8月にかけて自身の主演舞台を行っていた。公演を終えて、ごく一部のファン、と前置きしながらも、「(今回の舞台を鑑賞した観客をみて)きっとコンサートやイベントに来ている感覚なのかな...なのかなと思うことも」とか「オペラグラスは反射して眩しいし、せっかく舞台をやらせてもらっているのに全体を見ないのは勿体ないと思うから、苦手」というような内容の言葉が並ぶ。そして全体を読む限り、かなり言葉を選んでいるようで、演者としてすごく切実な思いなのだと思った。

(以降、変にジャニーズ関連のニュース引き合い出したら炎上しそうで怖いけど書き進める。)

まあジャニーズのアイドルであり、チケットもファンクラブ経由でその多くを発売していることを前提に考えれば、「コンサートやイベントに来ている感覚」で舞台作品の鑑賞をしてしまう人間がいても仕方ないのかもしれない。冷静に構造を俯瞰して見れば、もはや不思議には思わない。とはいえ、日頃芸術文化の現場をウォッチしている私としては、こういうところに、日本人の、作品との対峙の仕方への無理解、リテラシーのなさ、みたいなのが顕著に現れていると思った。

今回の場合、公演の志向が、例えばコンサートのように「アイドル・まっすー」ではなくて、ある一つの「作品のクリエイション」に向いている以上、見に行く側は「何を」見に行っているのかをしっかりと自覚して、その辺りを分けて考えるべきで、作品に対峙する者としてそれぐらいのリテラシーは備えるべきだろう。(偉そうなことを書いてみたけれど、ファン心理としてきゃーきゃー言いたいのは超良く分かるし、実際現場に行っていたら私も注意されている側の人間だったかもしれない、ということは自戒の念を込めて付記しておきたい。)

あとは「鑑賞」と「消費」の関係性も無視できない問題かなと思う。鑑賞という名の「消費」に、作品を創る演者やスタッフ、つまり「消費される当事者」が少々疲れてしまっているようにも受け取れる、ような気もする。でも、今回のことは鑑賞する側、つまり「消費する当事者」の倫理に視点を定めたので、この話はまた別の機会に。

余談だけど、私の立場的なことと繋げて考えるなら、作品を受け取る「リテラシー」が成熟した観客を増やすように仕事をしていかないとなあと思っています。どうやったら実現できるのか今は全然分からないけど。

+今読んでいる本

対談集『古市くん、社会学を学び直しなさい!』を7月に読んでから、社会学関係の本のななめ読みブームは変わらず。岸政彦さんの著作を読んだ後の社会学ブームを第一次ブームとするなら、第二次ブームが到来している感じ。
古市憲寿『絶望の国の幸福な若者たち』を寝る前に読みつつ、椹木野衣『感性は感動しない』と、橋爪大三郎『はじめての構造主義』をKindleで読みつつ、ふじた『ヲタクに恋は難しい』を一気読み。

+面白かったこと
+どうでもいい雑感

>大学時代の同期生と学内でばったり会って立ち話をする。9月から学内の別の研究センターで働くことになったらしい。これで学内で働く同期生が3人に。同じ門下で切磋琢磨した仲間が近くにいてくれるというのは本当に刺激になる。さらに頑張ろう。「野澤は誰よりもやりたいことの方向性がブレてない」といわれて嬉しかった反面、頑固なんだなと思ったりもした。

>ジムに連続して行ったら、ふくらはぎが痛い。最近の発見は今まで股関節が固いのは、ハムストリングスが固すぎるというのが原因だと自覚する。どうにかして開脚180度ができるようになりたい。スムージー生活は続いているので、加えて鶏胸肉を茹でてほぐしたものを食べることにする。


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