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聞いたもの|若尾裕×後藤正文「音楽にとっての自由とは何か? 『サスティナブル・ミュージックを巡って』」

2018年5月16日(金)
19:00〜21:30
「音楽にとって自由とは何か?」@外 soto

音楽学者の若尾裕氏と、ロックバンド「ASIAN KUNG-FU GENERATION 」の後藤正文氏による対談企画。チケットは当日の2週間前ぐらいに完売したみたいで、キャンセルするなら絶対連絡して、と何度かメールで連絡が来ていた。ありがたい配慮。だいたい60人ぐらいが入っていたと記憶している。

今回のトーク企画は、去年発刊された若尾裕氏の著書「サステナブル・ミュージック これからの持続可能な音楽のあり方」を読んだ後藤氏が、Twitterで感想をツイートしたのがきっかけだとか。

音楽活動をする中で感覚的に感じているあらゆる違和感、あるいは不満を、後藤氏が若尾氏に投げかける形でトークが進んでいく。おそらく6割ぐらいが後藤氏のファンで、若尾氏がしきりにゴッチファンのことを気にしながらトークが進んでいく感じだった。トークテーマが第一興味で来た人はあの場にどれぐらいいたんだろうなあ〜

音楽は「地面から湧き出て来る」ものだ

ということで、以下、ざっくり忘備録的感想。
途中で「ミュージッキング」の話が出たのはとてもよかったと思う。ロックコンサートのオーディエンスのノリ方とか、音楽を聴く耳とか、リスナー云々の話は岡田暁生の「音楽の聴き方」を読むべし。

最近、こういうトークイベントに参加すると、なんか内容が難しすぎて(どんどん複雑化していって)観客置いてきぼりで登壇者ばっかり得する感じで観客にとってつまんないものが多くて、なんか行った後に心底うんざりして帰路についていたのだけど、今回は後藤氏の音楽活動を基にしつつ、リスナーが普遍的に持っているようなフィジカルな疑問や問いから話が出発していたから、すごく聞きやすかったし、観客が持ち帰って考える種を与えてくれる時間だった。あの場の造りはすごくよかった。まあCDの値段とか流通とか、ちょっと商業音楽の色が強い、いわゆる業界話題も多かったけど。

特に面白かったのは、後藤氏が「(売れるために小賢しく音楽を作るのではなくて、)音楽はもっと『地面から湧き出て来る』みたいなものだと思う。」と発言していたのがすごく共感できた。私自身、音楽ワークショップのリサーチをする中で、非音楽家の参加者がいい感じで音を発して音楽するようになる情景を「うほうほしてくる(してきた)」と表現することがあるのだけど、そういう感覚かなあ。

それから、「アイデンティティなんて存在しない、そんな考え方は危険だ」という話題も。いわば社会構成主義的に、周りのあらゆる物事によって自己が形成されている、みたいな考え方を知らないと、アイデンティティを「探す」とかいうおかしなことになって辛くなるという話。若尾氏は、アイデンティティとは「近代が創り出した幻影だ」と言っていたのが、すごくスカッとした。

「CDにしていい音楽」と「CDにしてはいけない音楽」

あと、CDが売れなくなったことで、音楽家たちが起業家ポリシーでハングリーに家内制手工業的にいろんなことやっている、という指摘はとても鋭いと思った。例えば、音楽家自身がCD-Rに音源を焼き、ZINEを発行し、時にカセットテープで作品を発表するということが現に世界中で行われている。

後藤氏曰く、Soundcloudの登場は、ミュージシャンにとって衝撃かつ、いろんな人に聴いてもらえるという喜びとなった、と。
レコード会社は絶対的権威を持って「CDにしていい音楽」と「CDにしてはいけない音楽」の線引きと選別をして専売的にCDを流通させていく。つまり、お金にならない、流行る見込みのない音楽はCDとして流通されることはなかったのだ。

しかし今は違う、と。お金にならなくても音楽が発表できる場が増え、発信する方法もたくさんある。リスナーの耳に音楽が届く経路ははCDのみに限らないのだ。
レコード会社が権威を持って「CDにしていい音楽」と「CDにしてはいけない音楽」の線引き(後藤氏談)をして、専売的にCDを流通させていく時代はもう終わりを迎えている。作り手自身が届けたい人に、届けたい方法で音楽を届けていく時代。そうやって聴きたい音楽を探す旅に出かけやすくなる時代が、健康的に音楽を聴く時代はもう目の前にやってきている。「選び取っていく」ことほどリスナーがワクワクすることはないと思う。

(という話をきくと、私は、クラシック音楽の世界にいる「音楽家」たちは.............と思ってしまうのだった。)

トークは2部構成で、前半トーク。後半は、後藤氏によるドローン・ミュージックのパフォーマンスと詩の朗読。メジャーの真っ只中で活躍しているミュージシャンが、今、ここにある音楽を握りしめて、丁寧に音を選び取って、静かに音と言葉を「外」の空間に置いていくその様子は、誰にでも、無垢な表現欲求を、身体の中に秘めていることを気付かせてくれる時間だった。そしてあの時の後藤氏の声と言葉回しが、どこか妖艶だと感じたのは私だけだろうか。

まとめと余談

ということで、ぐだぐだ書きましたが、「〇〇音楽専門」みたいな縄張り争いや縦割りが存在しない語り方が、私はとても好き。どの音楽にも共通することがあって、それぞれの音楽にしかないものがある。それを概観してこそ「音楽」の輪郭が見えるはず。そんな考え方が最近確信になってきている。


大阪市立大学の増田聡さんがツイートしていた「アートを神聖化しない芸術学、音楽を神聖化しない音楽学」という立ち位置が今の私にはしっくりくる。一度会いたい。

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