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点滴ファイブ④ クリの節句 九月九日
クリの節句 九月九日
くっくっと笑い出しそうな朝でした。
釈放された父さんは、家に戻ってくるやいなや、開口一番こういいました。
「温泉にいくぞ」
車でちょっと走ればそこここに温泉がある地域なので、夜の点滴後に温泉にいくことは、これまでもよくあることでした。
さすがに朝っぱらから温泉に入ることはなかったけれど、今日は特別な日です。朝から湯に浸かっても罰は当たらないでしょう。
あたしは急いで父さんと自分のお風呂セットを準備しました。弟と爺さんは温泉が好きではないため誘いません。
父さんはすでに車で待っています。
「お待たせ、父さん。お帰り、父さん」
あたしは車に乗り込みました。
「今日は、温泉宿に泊まることにしたけんな」
父さんがいいました。
「えっ!」
あたしは驚き、咄嗟にこう訊きました。
「ロックも連れっていってかまん?」
父さんが頷いたので、あたしは車から降りると、庭でうたた寝していたロックを連れて再び車に乗り込みました。
突然車に乗せられたにも関わらず、ロックは後部座席ですぐに眠りの続きをはじめました。
近頃、ロックのカラダを覆っていた黒い毛には、白い毛がまじり、目玉も白く濁っています。
ロックはあたしが生まれた年に父さんが拾ってきた黒い犬で、廃業した鍵屋の前に捨てられていたそうです。
あたしもロックも乳が必要な年頃でした。お椀のように形のよかった胸がなだらかに垂れていくのもお構いなしに、母さんは胸を開放し、あたしたちのカラダを乳で満たしてくれました。
口で味わうという赤ん坊の特権に守られ成長したあたしたちは、いわば姉妹のようなものなのに、犬であるロックの体内で刻まれる時は、人間の何倍もの速さで進むため、ロックはあたしの妹でありながら、今ではすっかり年老いています。
「犬も温泉に入れるやろか?」
「知り合いがやってる宿やから、入れさせてくれるかもしれんな」
そうこたえた父さんの横顔は、数か月会わなかっただけなのに、別人のようで、目の下が黒く窪み、頬は削げ落ち、唇の皮があちこちめくれ上がっているのでした。
車はあたしの知らない道を走り続け、やがて道の両脇に茶色の棘を光らせたクリの木が生い茂る山道にさしかかりました。
「クリの花のにおいは、嫁入り前の娘が嗅いだらいかん」
クリの花の季節はとっくに過ぎているというのに、父さんは突然そういいました。
「なんで、いかんの?」
「いかんもんはいかんのじゃ。イカのにおいも嗅いだらいかん。嫁入り前の娘が嗅いだらいかん」
「なんで?なんでなん?」
そんな問答を繰り返すうちに、あたしたちは宿に着きました。山奥にあるうらぶれた宿でした。
車の音を聞きつけた宿の女将さんが、こちらにやってくるのが見えました。
女将さんはあたしたちの前に立つと、おもむろに父さんの肩に手を置きました。
「あんたぁ、たいへんな目にあったなあ。はよ上がって、お湯にお浸かり。犬もええよ。今日はどうせあんたらしかおらんのやから」
案内された露天風呂のお湯は、ロックの目のように白濁していて、いかにも父さんのカラダを癒してくれそうでした。
客はあたしたちのみということでしたから、あたしとロックと父さんは同じお風呂に入りました。
ロックは温泉に入るのがはじめてだというのに、騒ぐことなく前足を岩に乗せ、気持ちよさそうに目を閉じているので、あたしがくっくっと笑っていると、からからと点滴スタンドを押す音が聞こえ、目の前には女将さんが立っているのでした。
女将さんはまずはロックの鼻に、続いてあたしの鼻、最後に父さんの鼻に点滴の針を刺していき、「露天風呂に入りながら点滴できるんが、この宿の売りなんよ」と鼻高々にいいました。
女将さんがいなくなると、あたしはロック用のイカの目玉が入った点滴パックを指差して、父さんに尋ねました。
「ロックは嫁入り前やのに、イカを点滴してええんやろか?」
「ロックは嫁にはいかなんだが、老犬やからかまんのよ。それに点滴やったらにおいはないわい」
「そんなもんなん」
あたしは希望に満ちて輝いている新鮮なイカの目玉の点滴を、羨ましく思いつつ、自分に点滴されている老婆のような皮をまとったクリの渋皮煮を見上げました。
嫁入り前のあたしはクリを点滴してよいのでしょうか?クリの実はクリの花ではないのだし、点滴だったら、においはないからよいのでしょうか?そんなあたしの心の声に、クリはこう唱えます。
「ワタクシハ、ハマノクリデナク、ヤマノクリ」
父さんが「ええ湯やなあ」と呟きました。
空を見上げる父さんの頭上には、黄色の花弁が浮かぶ菊酒の点滴パックが揺れています。
お湯のせいか、お酒のせいか、赤らんだ顔の父さんは、少しばかり元気そうに見えました。
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