満月荘
あたしの家は川沿いに建つ二階建ての古びたアパートで、満月荘という名が付いています。
二階にはあたしの家族である今(こん)家が、一階には陳(ちん)家が住んでいて、つまり満月荘は、二家族だけの小さなアパートなのです。
今家にはあたしを含めて子供が六人と父と母、そしてじいちゃんとばあちゃんを加えた総勢十人の大家族であり、一階の陳家は若い夫婦の二人暮らしです。
一階と二階とは同じ間取りであるはずなので、陳さん夫婦のことを羨ましく思います。
同じ広さに二人で暮らしたならば、手足を伸ばして大の字になって眠ることができるのでしょう。誰かのカラダがのっかり、息苦しくて目覚めることなどきっとないはずです。
満月荘は微風にも大袈裟に震える臆病な建物であるため、年中騒々しくあちこちが軋み、それにあたしたちの生活音が加わるので、賑やかさだけはご近所に負けてはいないと思います。
そんな満月荘での生活の中であたしの一番のお気に入りは、月を独り占めできることです。
すぐ傍に川が流れているため、他の建物に邪魔されることなく、月を独り占めできるのです。
洗濯干し場から輝く月を見る時ほど幸せなことはありません。あたしは周囲の騒音を耳から掻き出し、月から放たれる静寂で耳の穴に蓋をします。
月はよいです。いっぱいになると欲張らず、自ら進んで欠けていく謙虚さをもっているところがよいのです。
それでいて、欠け続けて無となって、人々が早く出てきておくれと懇願するのを密やかな楽しみにしているところもまたよし。
月はそうした相反する性質をあわせもち、もったいぶって少しずつ腹を満たして豆のごとく膨らんでいきます。
だから人は、月に夢中になるのだと思います。目が離せない。見つめるなと怒る太陽と違い、時折、冷ややかに光る鎌を振り上げるわりには、いくら見つめても眼球をいじめない優しさがあるのです。
陳さん夫婦は午後になると家を出て、仕事場に向かいます。彼らは隣町の飲み屋街で、焼き肉屋を営んでいるのだという噂を聞いたことがあります。
それはきっと本当だと思います。あたしは陳さんが庭に置かれた洗濯機で焼き肉のタレを作っているのを、何度も目撃したことがあるからです。
洗濯機は衣類を洗うだけでなく、液体を混ぜるのに便利であるようです。タレが洗濯機の中で渦を巻きはじめると、覗き見しているあたしの鼻にも甘じょっぱい匂いが届きます。
けれどもあたしの家族の誰かが陳さんに「焼き肉屋さんをやっているの?」と尋ねても、はっきり返事をすることなくうやむやにするので、陳さんの本当の仕事はわかりません。
もしかするとあのタレはウナギのタレなのかもと考えますが、我が家で陳さんの噂話をする時は、陳さんが焼き肉屋を営んでいることを前提としています。
陳さんのご主人は痩せた背の高い人で、とても焼き肉屋をやっているようには見えないのですが、焼き肉屋だからといって肉好きというわけではないのかもしれません。
奥さんは背が低く、満月のようにふくよかな人です。きっと肉好きの女性なのでしょう。
二人は緑色のジャージを着た物静かな寛容な人たちで、あたしたち大家族の生活音に対して文句をいってきたことがありません。それどころか顔を合わせると、にこやかに挨拶をしてくれます。
だからあたしたちも満月の日の陳家の騒がしさについて咎めたりはしません。お互い様。
それに実のところ、陳家の喧騒は我が家の楽しみでもあるのです。
満月が近づくと、ばあちゃんはこういいます。
「あの人らは、お石さんを拝んでいらっしゃるからねえ」
お石さんというのは、満月荘のささやかな庭にある対になった石のことで、陳さん夫婦は毎日それに向かって、手を合わせます。
その石は丸く平たい石と、土中に差し込まれた石棒で、庭の隅に並んで置かれているのです。いつからそれがあるのかわかりませんが、随分と古いもののようです。
その石と満月の日の陳家の喧騒がどう繋がっているのかは謎ですが、陳さんたちのお石さん崇拝を、洗濯干し場から眺めるのもまた、あたしの楽しみであるのです。
あたしはどうも人の生活をこっそり見ることを好むようです。それは狭い空間での大家族という構成上、秘密を持つこともできないあけっぴろげな暮らしのせいかもしれません。
今月もあと一週間で満月です。
前回の満月の日に床の隅にキリで開けた穴は、日々、少しずつ削ってきたので、今では階下を覗き見できるだけの大きさになりました。
あたしは日中その穴の上に自分の衣類を入れるかごを置き、他の家族から隠しています。夜はそこがあたしの寝場所となります。
この穴はあたしの人生初の秘め事です。あたしは今度の満月に、陳さん夫婦が何をしているのかを突き止めたいのです。
あの喧騒はなんなのか?
なぜ満月に、陳さん夫婦が繰り広げる音を聞くと、あたしたち家族は踊り出してしまうのか?
ここ数日、寝床からこっそり朝方の陳家の様子を覗き見しています。朝日にうっすら照らされている陳家には、変わった様子はありません。陳家の二人は二枚の布団を並べて、お行儀よく眠っています。
夜遅くまで仕事をしているので、我が家の朝の騒動にも気付かずに、ぐっすりと眠っていられるのでしょう。
陳さん夫婦の安らかな寝顔を見届けると、あたしは起き出し、布団を片付けたならば、衣類のかごを穴の上にのせるのです。
いよいよ満月の日です。
まんまるのお月様が川面に映っています。あたしは我を忘れて踊り出してしまう前に、階下の秘密を探らなければなりません。
陳家の喧騒を耳にしてしまうと、自分自身を制御できなくなると思い、耳の穴にティッシュを詰めて寝床に入りました。
家族は真夜中に備えて少しでも睡眠を確保しておこうと、夕食後早々に眠りにつきましたが、あたしは目をつむっても、興奮しているのかちっとも眠れないので、人気のない真っ暗な陳家の部屋を穴より覗きます。
もちろん何も見えません。陳さんはまだ焼き肉屋で働いているのでしょう。働き者の陳さんが帰宅するのをあたしは待ちます。
夜の十二時を回った頃、階下で物音がして部屋の明かりがつきました。陳さん夫婦らしき姿が見えます。
陳さんでない別の人間かもしれないと思い、あたしは目を擦り再度確認したところ、いつものジャージ姿ではなかったけれど、彼らは間違いなく陳さん夫婦でした。
ご主人は上半身が裸で白い褌を締めています。痩せていると思っていたご主人は、なかなか筋肉質な立派な体付きをしていて、右肩にはこんもりとした瘤のようなものが出来ています。
一方奥さんは顔を白塗りして浴衣風の白装束(しろしょうぞく)を身に付けていました。
彼らの傍には、神輿が二つ置かれています。それぞれの神輿の上には、庭に置かれているはずの石棒と丸石がのっかっています。
満月荘の外が騒がしくなり、陳家の玄関扉が開きました。
ご主人同様の褌姿の男たちと、奥さんと瓜二つの白装束の女たちが、ぞろぞろと陳家の部屋に入り込んできて、陳さん夫婦が部屋いっぱいに増殖しているように見えます。
女たちは石棒をのせた神輿を、男たちは丸石をのせた神輿を担ぎ上げました。
「チッチチッチチッチ チッチチッチチッチ」と舌打ちみたいな掛け声が男たちの口から漏れ出て、そこに「チャッチャチャッチャチャッチャ チャッチャチャッチャチャッチャ」と騒ぎ立てる女たちの声が被さり、そうした声は渦となって上階のあたしたちの部屋にあがってきて、あたしのティッシュを詰めた耳の穴にも難なく入り込んできます。
やがて女たちの石棒の神輿が、丸石をのせた男たちの神輿にぶつかると、掛け声の合間に響く二つの石の低い打音が、満月荘を土台から揺らしました。
その揺れに呼応するかのように、あたしの隣で眠っていた家族がむくむくと起き出してきました。彼らは布団を踏みつけながら輪になって踊り出します。
それは満月の夜のいつもの光景。今家の盆踊り。
月明りに照らされた家族は、恍惚とした表情をして、階下から響く打音と掛け声に合わせて盆踊りを踊っています。
神輿上の二つの石は、さらに激しくまぐわいを重ね、白い火花を散らし、その打音に彼らが放つ掛け声がまざりあうにつれ、満月荘はさらに賑わっていきます。
満月の夜の陳家の秘密を知ってしまったあたしも、ついに我慢しきれず布団をはねのけ、体を起こし、踊りの輪に加わりました。
満月荘での賑わいは朝方まで続き、やがてあたしたちは朝日と共に布団に倒れ込み目を閉じて、その日が休日であろうがなかろうが、そんなことは気にせずに、思う存分眠るのです。
そんな満月荘の庭では、あの一対の石がいつもと変わらぬ姿で朝日を浴び鎮座していて、満月荘の住人たちを深い眠りへと導いているのでした。
(完)
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