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偽りの先にあるもの
(夫の偽り)
「中野さん、どうぞ」
呼ばれて入った診察室を一瞬ぐるりと見渡す。
柑橘系の香りだろうか。
椅子の座り心地は悪くない。
「初診ですね、いつからどのような症状ですか?」
きちんと正面を向き丁寧に話を聞いてくれる。
メンタルクリニック。
予約をしても尚、行くかどうか迷った。
とにかく眠れないのだ。
目を閉じてみるものの、一向に睡魔は訪れない。
ここ一ヶ月程…。
診察を終え睡眠導入剤と抗不安薬を受け取り、薬局を後にした。
このまま帰路に就きたいところだが、それにしては時間が早すぎる。
早い帰宅の理由を、妻に説明出来ない。
この受診は内緒なのだから。
クリニック近くの公園で時間を潰し本屋に立ち寄り、会社を定時で上がった体で帰宅した。
いつもの様にルーティンをこなし、一日の最後に妻が韓流スターや、韓流ドラマのストーリーを熱く語ってくる。
話を聞きながら眠剤を飲むタイミングを探していた。
仕事用の鞄から薬を取り出して飲む。
簡単な事だが、“妻に内緒で”というハードルがある。
自然に尚かつ密かに…。
さて、どうしたものか。
韓流ドラマの話どころではない。
…そうだ、寝る前に妻がトイレに行くだろうから、その時に飲もう。
ホッとしてまた妻の話に集中した。
妻の美也子との間に子供は授からなかった。
しかし夫婦間の空気は悪くもなく、穏やかに時を重ねる。
そしていつの間にか安定のセックスレス。
誘い方も致し方も、とうの昔に忘れてしまった。
多分、自分が悪いのだろう。
元々性欲はそれほどない。
職場の後輩の姉で、出会った当初から美也子の方が積極的だった。
パッとしない自分のどこを気に入ったのか。
面白みのない男だろうに。
薬のおかげで久しぶりに良く眠れた。
朝ご飯もいつもよりおいしく感じる。
いつも通りの出勤風景。
もうすぐ会社に着く…。
と思うと同時に目眩と嘔気が襲ってくる。
今週はずっとこの調子だ。
帰りたい。
出勤もしていないのに、もう帰る事を考える。
そうだ、こういう発作時に飲む薬もクリニックで出して貰っていた。
水が欲しい。
さっさと出勤すればそこにあるのに、足はコンビニへ向かう。
少し歩いて公園に来た。
目眩と嘔気は既に落ち着ちついていた。
要するに出社したくないのだ。
ベンチに座り、ウォーキングや犬の散歩をしている人達を眺めボーッとする。
遅刻してでも出勤しなければ、と思うが足が動かない。
まるで会社をサボっているサラリーマンみたいだ。
いや、今まさに、それ。
今日はこれからどうしよう。
体調不良で休む事を会社に連絡し、目を瞑る。
首がガクンとなった。
いつまでもこうしては居られない。
近場のネットカフェをスマホで検索した。
(妻の偽り)
夫の孝一は、弟が勤める会社の先輩だった。
どこか全体的に物足りない男ではあったが結婚を決めた。
一番の安心材料として、浮気をして妻を泣かせるような事はしないだろうと思った。
いつも無難に優しい夫。
夜の夫婦生活も至って無難。
そして想定内のセックスレスに。
今はマッチングアプリと言うらしい。
出会いを求めるのは若者だけではない。
熟年向けのそれも有り、時々単発で男遊びをしていた。
今運転席に居る春斗もそうあるはずだったが、かれこれ3年が経とうとしている。
平日休みの春斗は私にとって都合が良い。
2歳年下と月に一度。
コンビニで昼食を買い、ホテルへ向かった。
部屋に入るなり体を密着させ貪るようにキスをする。
ムクムク反応する春斗の股間をもっと感じたくて自分に引き寄せた。
春斗に覆い被さりながら、静かにベッドに横たわる。
キスをしながらブラジャーのホックを外され、上下逆になり十二分に胸をもてあそばれる。
その先はまだお預け…。
腕を引っ張られ起きた。
一緒にシャワーを浴び、春斗が体を洗ってくれる。
私はただ立っているだけ。
「足開いて」
見つめたまま春斗の右手だけがいやらしくそこを撫でた。
一緒にバスルームを出ても、先に私の体を丁寧に拭いてくれる。
バスタオルを体に巻き、軽くメイクを直そうと思ったところで、春斗が体を拭きながら「そのままでいいよ」と後ろから顔を覗いてきた。
「早くしよ…」
手首を掴まれ、今度は春斗が覆い被さりベッドに倒れ込んだ。
コンビニ弁当を食べた後はお昼寝タイム。
あまりにも幸せすぎる時間で、春斗とこのまま死んでも構わないと錯覚する。
決してタイプとは言えない外見なのに、どうしてこんなにもこの男を好きなのか、未だに分からない。
とにかく可愛い。
目が覚めると春斗は顔をこちらに向け、うつ伏せで寝ていた。
キスをせずに居られない。
「今何時?、もう帰る時間?」
春斗に聞かれても答えないまま、今日の別れを惜しむかのように、もう一度愛し合った。
帰りの車中は明るく振る舞う。
そうでないと泣きそうになるから。
ふと、歩いてる男性が目に止まり、あら…?あの人…。
車で追い越し際、男性の顔を見た。
随分似ている。
「どうかした?」
春斗の問いに、「ううん、何でもない」
と首を横に振る。
夫に似ている人が歩いていた、とは言わなかった。
気のせいだろう。
会社の隣町を歩いているはずがない。
営業職ならまだしも、夫は事務職なのだから。
「またね」と言い車を降りた。
外から運転席を見つめる。
春斗が手を振ってくれた。
(守りたい日常)
用心し結局会社の隣町のネットカフェで過ごした。
万が一にでも、会社の人間に見られてはならない。
また仕事を定時に上がった体で帰る。
今日はついに仕事をサボってしまった…。
自己嫌悪に陥りながら今日も眠剤に頼り、眠りにつく。
土日の朝は、妻が焼いたパンを食べる。
昔、趣味で始めたパン作り。
これがまたおいしい。
クリームの入った菓子パンや、ハムチーズの入った惣菜パンなど、普通のパン屋に引けを取らない。
羨ましい。
自分にはこれと言った趣味や特技も無く、読書やテレビのスポーツ観戦で休日を過ごす。
だからと言ってこの代わり映えのない日常に、不満どころか満足さえしていた。
仕事も至って順調だった。
そして不意に昇進してしまい、暫くすると出勤時に体調不良が現れた。
本来ならば昇進は喜ばしい事だが、自分には全く興味の無い話、どちらかと言うと迷惑だった。
(偽りの先にあるもの)
月曜の朝。
例の発作時にすぐ薬が飲めるよう、出勤途中の自販機で水を買った。
なんとか会社に来たが頭痛が酷い。
結局上司に事情を説明し早退させてもらう。
ネットカフェで時間を潰さず、真っ直ぐ帰宅した。
妻に何を言われても構わない。
もう包み隠さず話してしまおう。
いつまでも偽り続ける事は出来ないのだから。
妻の友人が来ていた。
挨拶もせずまっすぐ寝室に向かいベッドに横たわる。
ふと、女の友人で良かったと思った。
もしかしたらこのベッドで、男と抱き合っていたかも知れない。
今更ながら、妻に電話をしてから帰るべきだった。
仮にそういう相手が居たとしても、妻を責める気にはなれないだろう。
妻を満足させてあげられない夫が悪いのだ。
そう、全て自分が悪い。
上司からの期待には応えられず、部下を手懐ける事はもっと難しい。
誰に対しても何一つ満足に致せない。
自分は無能な人間。
呼ばれた様な気がして目を開けた。
寝室を出ようとしていた妻が見えて名前を呼ぶ。
「急に帰って悪かったね」
「いいのよ。そんな事より大丈夫? 具合悪いの?」
「うん、ちょっとね」
「会社で何かあった?」
その優しい口調に救われた。
全て話そう。
全て話して楽になりたい。
一ヶ月程眠れなくてメンタルクリニックを受診し、隠れて眠剤を飲んでいた事。
出勤時は目眩と嘔気に見舞われる事。
会社の隣街のネットカフェで仕事を一日サボっていた事。
今日は酷い頭痛で早退してきた事。
情けない、と呆れられるのがオチだろうと思っていると、
「最近眠れなかったのは気付いてたわ」と。
「そうなの?」
「休んでいいのよ?」
「休む?」
「少し休んだ方がいいわ、休職出来ないの?」
「休職…そんなの考えてもみなかった」
「もし出来るなら、そうしましょうよ」
「でも…俺が働かないと」
「大丈夫よ、多少の蓄えならあるわ」
妻に初めて涙を見せた。
(妻の夢)
春斗の車中から見た夫にそっくりな人は、やはり孝一だったのか。
夕食を作りながら考える。
どこで歯車が狂ってしまったのだろう。
昇進して束の間…。
…もしや、それが夫には重荷だったのか。
環境の変化をあまり好まないのかも知れない。
確かに面白みのない夫だけど、決して私を否定しない人。
夫なりに私を愛してくれている。
ただセックスをしないというだけ。
夕食時、資格を取って家でパン教室を開きたいと話した。
夫は少し驚いていたが、「応援するよ、君ならきっと出来るさ」と言ってくれた。
夫らしい言葉。
パン教室が軌道に乗れば、小さなパン屋を開いてカフェを併設してもいい。
もし夫がサラリーマンをリタイアしたら、夫婦でお店をやるのも悪くない。
春斗に会うのは今度で最後にしよう。
そうだ、久しぶりに夫婦でゆっくり旅行にでも行きたい。
旅先の夜は、試しに夫を誘ってみよう。