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何かに感化されて動くとき

最近、『踊る大捜査線』、『ガリレオ』シリーズなど刑事物のドラマを一気見するという暇な大学生の夏休みみたいなことを仕事合間を縫って行っている。

社会現象を起こしたほどのドラマ『踊る大捜査線』とはどんなものかと思い見てみたが、まあベタな展開だけど爽快感があって見終わった後にどこかスッキリした感情になる。

その後、織田裕二が何故、木村拓哉や福山雅治になれなかったのか、というザックリ批評記事を読んで福山雅治に興味が湧いた。
東野圭吾の推理小説が原作となる『ガリレオ』シリーズのドラマが放送開始したのは2005年。
映画も含め再放送を何度かみてきたつもりだが、本腰を入れてみたことがないことに気づき、
わざわざFODに入り1話見出したら止まらなくなり寝不足が続くというオチだ。

ここで議題に挙げたいのが、ドラマシリーズの『ガリレオ』と映画『ガリレオ -Xの献身-』の2作品の違いについてだ。

ドラマシリーズは原作の短編を1話ごとに放送し、超常現象としか思えない難事件を天才主人公の湯川学が科学的に解き明かしていく。
湯川先生の「さっぱりわからない」から始まり内海警部の刑事の感にヒントを得て、謎数式をいたるところに書いて、眼鏡に手を当て実証実験をして解決。がドラマの起承転結だ。

ただ『Xの献身』は上記の展開がほとんどない。
あらすじはここでは重要でないため記載しないが、単純明快に科学の力を使って事件を解決することが正しいわけではないのだ。

事件が最後まで解決しなかった理由は、天才物理学者アインシュタインが一生かけても解けず、宇宙で最も偉大で強力な力を持つと残した『愛』が原因となっていたからだ。
見えづらい愛に焦点を当てるために、エンタメ要素は削ぎ落とし、役者の一言で、1つの描写で視聴者に訴え続けるのだ。

日本人ならではの何かを感じる間の取り方、描写の奥行き、不器用さや謙虚さがいたるところに垣間見えて、ああ素敵な映画であり脚本であり役者であったと感極まってしまったし、
仕事でエンタメを扱う者として上記語らないことで語る、という感覚を常に持ち続ければいけないとも思った。

普遍的なように見えて、最も壮大なことに焦点を当てる東野圭吾本を読みたい!と思い、最寄り駅の本屋へ向かい『麒麟の翼』を買ってみた。
母親が東野圭吾にハマっていた時よく勧められたが、当時は小難しくて読めないと思っていた。
シリーズ全ては早い気がしたけど、1冊なら、いまなら、読めそうな気がしたのだ。

長くなったが結局何が言いたいかというと。
自分自身の欲に忠実になるのではなく、誰かに、何かに感化されて動くことは素晴らしいことだということだ。
新しい出会いの糸を自らつかもうとしている、知らない世界の扉に気づき開けようとしているから。

「麒麟の翼」。
読み終わった後にまた何か新しい感覚が生まれていたら良いな〜!

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