適正技術と内発的発展
内発的発展を考えるとき、近代科学技術との関係を考えずにはいられない。ここでは適正技術というキーワードから内発的発展について考えたい。
まずはシューマッハーの「スモール イズ ビューティフル」から始めよう。1973年に書かれたものであるが、今の時代にも十分通用するものである。この本では「中間技術」というキーワードが出てくる。中間技術とは、高価で先進的な技術ではないものの、手に届く価格で、人びとの生活に変化をもたらす可能性のある技術を指す。田中直が「現代適正技術論序説」の中で指摘するように、シューマッハーは中間技術を途上国に限ったものとして捉えてはおらず、先進国にとっても価値あるものであると捉えていた。それはなぜか。
田中は1970年代の近代科学技術批判の論点を3つにまとめている。1つ目は環境と資源の問題、2つ目は人間・労働疎外の問題、3つ目は貧困と格差の問題である。技術による豊かさを追い求めるあまり、環境汚染や資源の枯渇、エネルギー問題を引き起こした。また、近代産業社会になれば解決できると思っていた貧困は未だ解消されず、格差は開く一方である。さらに生産性ばかりが重視され、人間はそのシステムに組み込まれる労働者になり下がってしまったというのである。
これらの近代科学技術の問題を解決する代替的技術(オルタナティブ)として中間技術があり、それは途上国だけの問題ではない。中間技術は、今の言葉で言えば持続可能な社会を実現するために、先進国にも必要な技術、考え方であると、シューマッハーは捉えていたというのである。
内発的発展を考えるうえで特に注目したいのは、人間・労働疎外の問題である。鶴見和子や西川潤らは「内発的発展論」の中で、内発的発展は一切の他律的・支配的な発展を否定し、自立性を重視するとしている。田中はイヴァン・イリイチの「コンヴィヴィアリティの道具」を取り上げてこの点について論じている。
人びとが受動的に道具に使われているのか、それとも積極的に使いこなしているかによって、大きな違いが出てくるというのである。シューマッハーが、中間技術を自立の技術、民主的技術、民衆の技術と言い換えているのも、この点と関係するのだろう。
さらに、鶴見和子が近代科学・技術と土着科学・技術について論じている部分についても抜き出してみたい。
外から入ってきたものはそのままでは「受動的」なものであり、むしろ悪い変化をもたらしかねないが、新しいものが入ってきたことによって、人びとがこれまでの技術をつくりかえ、彼らの文化、社会の中に良い変化をもたらすきっかけになったとしたら、それは内発的発展であると言えるだろう。適正技術を考えるうえで、主体性を取り戻し、創造的能力を自由に発揮させていくことの重要性が語られるのは、内発的発展の議論と大いに重なる部分であるし、今の時代にも共通することである。