見出し画像

踊り巡ってきた時間 #02 (大学生〜20代半ば 東京編)

さて、いよいよ上京編。東京でどんな生活が待ち受けているのか…
どうぞご覧ください!



ニチジョにスタジオに、新しいダンスが目白押しで

晴れて女子大生となり上京したわたしは希望で満ち溢れていました。
大学には、踊りたい!と目をギラギラさせた猛者どもが全国から集まり個性を爆発させて存在。その中で多様な舞踊を実技や座学で学び始めていくのですが、青森から出てきた田舎者にはなにもかもが眩しく付いていくのに必死だったのです。。
生活が少し落ち着いて来たGW明け、いよいよ横浜の先生のスタジオに行ってみることに。ここでわたしは鍛えてもらってコンクールで賞を取る!と意気込んでスタジオの扉を開けて待っていたのは「大人クラスは美香だから」という先生からの予想外の言葉。
ん?ちょっと待って。わたしは横浜の下田栄子先生(八戸の先生の先生、モダンダンス界の大御所)に習いたかったんですけど!それが美香さんとはどういうこと?!
はいー。美香さんとは日本のコンテンポラリーダンス界のゴッドマザーと呼ばれる黒沢美香さんのことで、それまで何度か見てきたものは斬新の一言。
予想外のことに狼狽するも横浜まで来たし地元の先生の手前もあるしで後に引けないわたしは、その日の美香さんのクラスを受けるのだが、いまでも鮮明に覚えているのは、ダンサーたちがただ立っているだけで、そこに踊りがあるだの無いだのと話している美香さん。
ん?立っているだけで、踊りが云々とは?!
とにかく「?」だらけだったけど、上にも書いたように後にはもう引けなかった状況だったため美香クラスにその日から週2回通うことに・・・。
「脚が上がったから何なんですか〜」と甲高い声で指摘してくる美香さん、通い始めて最初の数ヶ月は他に10何人といるのにわたしの前に張り付き、一歩出すたびにゲキが飛んできたり、美香さんの声はいまでも脳裏にこびりついてる。。。笑

始まっていく女子大学生ライフ

大学生って楽しくエンジョイな感じを想像していたけれど、うちの大学(通称ニチジョ)は毎日授業がびっちり詰まって忙しい。加えてアルバイトも始めたら寝不足気味。
存在をアピールする同学年のダンサーたちに怖気付きながら毎日を送るのだが、どうにもパッとしない自分がいる。それに輪をかけるように通いだした稽古場では言ってることが外国語のようでよく分からないけどとにかく稽古に通うしかない消化不良の状態。
前期の授業を終えて実家に帰った際に「大学を辞めても良い。そこにかかるお金で稽古場に通ったり他に使いたい」と相談してみるも、せっかく入ったんだからと説得され渋々そのまま通うことになる。悶々と時間が過ぎていく1年生。冬に黒沢美香&ダンサーズ(通称そう呼んでいた)の公演があって少し出番もあって出演したが、ただ動いているだけ緊張しているだけで先輩たちのように踊って居ない自分。やってることもよく分からないまま終わったのでした。

大学にて1年生の頃


また一つ大きな壁がやってくる

美香クラスに通いだし早々にコンクールに参加したい旨を表明していたので、大学2年となって美香さんの振付で1対1の稽古がいよいよ始まることに。週2回の通常稽古でも毎回ドキドキしていたのが2人きりなんて・・・。身体の小さいわたしは、さらに小さい美香さんに身体の動かし方使い方をこれでもかとしごかれ、振付も細かく難しく独特でわたしだけのソロという宝物に見合う踊りにならず、求められていることも分かり切れず動きを追う悪戦苦闘の毎日。稽古しても稽古しても分からない。
コンクールがいざ始まっても入選はかろうじてできても大きな賞は取れず、毎年1位やそれに続く上位を出すスタジオに所属していながらいくつか出たコンクールでは大きな結果を出せずに1年が過ぎていきました。

大学は折り返し、活動はゆっくりと始まっていく

3年生になるとき美香さんから「もうコンクールは見たくない」とまさかの宣言を受け、コンクールに出るには自分で振りを創ることに。想定外!自分で創ってどこまでいけるのか・・・。不安しかない中でも本番は迫ってくるし手探りでこれまで踊ったことのある振りをくっつけ創っては壊しの繰り返し。美香さんの独特な振付とは異なり、幼少時代からやってきたモダンダンスがまだ色濃く身体に残っていて、個性も何もない作品に。それでもテクニックだけでどうにか入選止まりの目立った結果は出せず。
そう、コンクールはパッとしなかったけれど、美香&ダンサーズのメンバーでニチジョの先輩でもある2人とSTスポットの「ラボ20」というコンテンポラリーダンスの若手登竜門的な公演に出れることになり、それがきっかけであれよあれよと活動が始まっていった。俗に言う過呼吸乙女ユニット「ピンク」のスタート、05年1月のことでした。

ピンクデビュー「ぷわって突いたりくりって刺したり」STスポット

「ピンク」とは?

先輩である加藤若菜、須加めぐみとわたしの3人で始まったピンクは、当時のコンテンポラリーダンス界隈では、黒沢美香のところの若手3人衆ということと身体を張って激しく愚直にダンスを求める面白さとがミックスされ、注目を浴びてあっという間に舞台が次から次にやってきました。体操着を着たピチピチした3人が必死に筋トレして踊りまくってコント的なことも混ぜ込みながらがむしゃらに踊っていくと、東京以外でも踊る場が徐々に増えていき各会場でもお客さんから声をかけられ、いま思うとアイドルのようにキャーキャー言われ、あちこちで呼んでもらい知名度アップ。
しかし現実わたしたちの創作スピードは時間を要し共同で振付・演出をしていたので、週5日くらい顔を合わせて稽古と創作を、いやいま思い返すとおしゃべりして笑ってばっかりの稽古と名付けた時間が大半で家族以上の時間をたくさん、本当にたくさんの日々を3人で過ごしていたのです。

違う方に行こうとするとダンスが追いかけてくる

ピンクの活動が動きだしたとはいえ、わたしは大学3年生の冬。世間一般での就職活動の波に乗りわたしもスーツを着て説明会や面接と予定を埋めていきました。実家住まいでもない自分は仕事をしてダンスは仕事の次になってしまうが仕方がないと思って。
そんな中でもひっそり準備して出た春のコンクールで初めて入選し、子どもの頃からの悲願をここでまさかの達成!(その上の賞は取れなかったけど。。。さらにダメ元で出していた「文化庁・新進芸術家国内研修員」に採択され10ヶ月間活動へお金が援助されることに!
もうダンスはいいか、と思っていた矢先の嬉しい出来事の連続に「きっとまだダンスを続けていったら、ってことなのかもしれない」と前向きに捉え、地元にいる親とも相談してどうにか正社員でなくても自分で生活費を稼ぎながらダンスを中心とした生き方をしていく方向に進むことになったのです。

大学最後の年、そして

4年生となり10ヶ月間の研修費が出ていたので、その費用でいろんなものを見にいったり公演を打ったり踊りに行ったりと充実の日々。

ニチジョ卒業公演有志作品

とりわけ、美香さんにまたソロを振付してもらえることになり、2年前に外国語でついていくのに必死だったわたしが、美香&ダンサーズとピンクで鍛えられていたので1対1の稽古は毎回充実した宝物の時間。言われたことしかできなかった自分が、初めて「これがダンスか」と思えるそれまでとは違うすごい踊りをしたとき、美香さんは言葉を詰まらせただ黙ってみていてくれていた。
費用がかかる為に断念していたコンクールも研修員という環境にあって出れることになり、稽古をしていると美香さんから「1位を取ろう」と大きいことを言われ、戸惑いながらもこの数年で誰よりも稽古してきた自負はあったし美香さんにダンスを少し認められたようで嬉しい言葉で、より稽古に熱が入っていき、意気込みを持って臨んだもののコンクールでの結果は4位。
その後もいくつかコンクールに出て良い出来だったなと自分で評価高く思っても結果はついてこず。埼玉のコンクールでイマイチの出来であぁダメだったかーと思えばまさかの3位。嬉しさと同時に審査員に評価してもらう時期はもう終わったな、とコンクール生活に自分でめでたくピリオドを打つ。
足掛け11年。コンクールが全てではないと断言できるが、本番までの稽古はいま思い返してもわたしを鍛えてくれた貴重な時間です。


ピンクの方は、相変わらずちょこちょこ呼んでもらう本番があり単独公演をしたりととにかく忙しく活動していました。卒業して派遣社員で働きながら踊り続けていたけれど、ピンクは自分たちが思っている以上に周りの期待が大きく自分のダンスがほとんどピンク一色になっていたのです。

ピンク、JCDNアジアツアーに参加(2007年@フィリピン・マニラ)


翌年もJCDNアジアツアーに参加(2008年@インドネシア)プールサイドでの取材時

そんな中でも他の振付家の作品に出れる機会ができたり、自分でソロをやったりすると新たに知ること新しい刺激がたくさん。
ピンクは言葉が無くとも自分たちのやりたいことや良いところを出しあえる反面、甘えている部分は少なからずあって、果たしてわたしはこのままでいいのだろうか?ピンクの1人として踊るためにダンスを続けているのだろうか?と疑問を持つようになっていました。

とにかく次から次に来る本番の忙しさもあって、一度ここから出てよく考えたいと思い決断したのが「文化庁・新進芸術家海外研修員」への応募でした。


そして海を渡る

準備が大変だったのでこれはまた改めて記したいことですが、応募して半年とちょっと、希望していたドイツ・ベルリンへの2年間の研修がまさかまさかで決まったのでした...!


いいなと思ったら応援しよう!