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踊り巡ってきた時間 #03(20代半ば ドイツ編)

日本から出たい、そんな思いで申請した文化庁の新進芸術家海外研修員制度。それまでの活動を評価していただき、ドイツ・ベルリンに2年間行けることに!
ベルリンの地に降り立ち、2年という時間をどう過ごしていったのか。16年も前の2008年のことなので写真と当時綴っていたブログを参照しながら写真多めで記していってます。
踊っていた時間、というよりもドイツでの生活が中心の内容になってますが…海外暮らし、欧州でのアート生活、こんな感じか〜と知る一つの参考になれたら嬉しいです〜


研修スタート

フランクフルト経由で13時間かけて着いたベルリン、着いた10月終わりは冬時間にちょうど切り替わった日で暗くなるのも早く東京より寒い体感。空気が乾燥していたのか咳き込みがちだったので、日本から持っていったマスクをつけて歩いていたら、ジロジロと見られたことを思い出す。確かに街でマスクの人見かけないんです!

ベルリンの壁

最初は日本人の空いている部屋を借りていたので、着いて数週間の間に家探し。何軒か見に行ったのち、せっかくドイツに来たからなぁと思いドイツ人女性とWG(ヴェーゲー・ルームシェアのこと)することに。向こうではコストも抑えられるWGが主流。

研修受け入れ先は「Tanzfabrik Berlin」というオープンクラスを主にやっているスタジオ。

ここでレッスンを受けたり、ベルリンには他にもいくつかスタジオがあったので、興味あるクラスが開講されるときは他スタジオに受けにいったり、見にいきたいものを見に行く日々。
東京在住時も公演の合間で時間ができればバレエのクラスを受けにいってたけど、ベルリンで自分の時間がわりとできたのでバレエも受けに行き改めて基礎作りに奮闘、カラダと自分自身の見直し期間突入。ヨガにもたびたび行って新しい感覚を手に入れ始めます。

部屋探しも自分なの!?と思うかもしれませんが、文化庁の研修員制度は航空券以外は全て自分で探します。研修先も家探しもビザ(これが一番大変!)も。
わたしがラッキーだったのは、同じ年に同じ研修員で同じく2年ベルリンに滞在するダンサーが居たということ。畦地亜耶加さん、同い年!
彼女が居たことで互いの不安ややらねばならないこと、もちろん楽しみも共有できたことはとっても大きかったのです。いっっぱい語り尽くしたね。

あちこち一緒に旅も

他にも砂連尾理さん(ダンス)木藤歩さん(照明)など、この年は日本人が多くベルリンに研修に来て居たので、いつも一緒にというより程よい距離感を持って、たまに会ってはベルリンでの充実した研修話を聞いて刺激をもらい生活を送って居ました。

左から砂連尾さんの奥さん、砂連尾さん、
木藤さん、アヤカ

語学学校に行く

東京で忙しい生活を送っていたので、ベルリンの街の人たちのようにゆっくりペースで過ごしていくうち、せっかく2年もドイツに居るなら話せるようになりたいと考えるようになり、この年の12月から語学学校に通い出しました。大学で習っていたとはいえ何年も前ですが全く話せなかったので、「Guten Tag(こんにちは)」から再スタート。大人になって自分が本当に学びたいことを学べるって良いですよねぇ〜

3ヶ月通ったドイツ語学校のクラスメート

ちなみに計3回間をあけて語学学校へ。
ベルリンでは外国人も多いからダンスは基本英語でコミニュケーション取ることが多く、中高レベルだけどもともと英語は好きな方だったのでどうにか生活できていてもドイツ語はほぼ初心者。学んでいくうちに話せてコミュニケーションが取れているのが実感としてあるとめちゃめちゃ嬉しい。学校で習ったことももちろん、語学学校のメンバーとは極力英語ではなくドイツ語を使って話すようにしていたので、どうしようもないお喋りしまくってドイツ語は上達していってました。

【メモ】外国語は必要と感じなければなかなか上達せず。教室で習うことも良いですが、思い切ってその言葉を使う土地に行ってみることをオススメします!

3つ目の学校。ここで一番上達もしたし
多くを共有できる友だちもできて毎日楽しかった〜
とりわけ韓国人の子と仲良くなりその子から韓国のことも日本のことも笑 教えてもらった


ドイツの冬は寒いし大雑把なことが多々、そしてVISA取得!

マイナス10度…八戸でも体験したことのない寒さ。
この年がまた特別に寒かったんだとか。

子どもたちが乗ってるソリが可愛い

年が明けた2009年1月も半ばになり、仮VISAの有効期限3ヶ月が切れる時期。取るのに大変だった…と先輩研修員の方々に言われ(人によっては外人局に5回行ったとか)不安を抱えつつ同居人についてきてもらって、準備してきた書類を提出、大丈夫だろうか..と待ち時間はソワソワ。そうしたらまさかのその日にVISA取得!しかも2年間…!こんな奇跡が起きるとは。。。同居人曰く、外人局の人はわざとドイツ語しか話さないようにしててあり得ない!と。確かに英語対応してくれても良いのにねぇ外人局なのに。

それまでも住民票、銀行開設、保険、携帯など1日1個クリアすれば上々。大変というか、行こうと思えばストライキで電車が止まってる、違う日に出かければ役所はこれまたストライキで休んでる、日本では考えられないことが多々…ひとまずVISAゲットによりこれで心置きなく過ごせることになったのでした。

【メモ】VISA取得に関しては土地によって用意するものが違い、なんなら外人局の中の人によっても違うというギャンブルそのもの。その土地でVISAを取った方からしっかり事前アドバイスをいただくことをオススメします!

サマータイムで一気に魅力増

ベルリンに到着した日が冬タイムの始まりだったので、いつもどよーんとした曇り空の続く秋→冬でしたが、3月最終日曜日からサマータイムに切り替わり(手動で時計も変えるよ☝️)日本との時差は7時間に。
日も長くなり、一気に街に人が!外カフェ、公園、至るところの人口が増えたかのような。日没も遅くなり、夏は21時でも明るいのです〜

ベルリナーは公園大好き

そして一人暮らしがスタート

ドイツ人とのWGも楽しく助かることも学ぶこともあったけれど、やはり人と暮らすのは元来得意ではなかったので一人暮らしをすることに。
たまたま空きが出た部屋の不動産手続きもすんなり終わり(日本だとフリーランスってだけで部屋を借りるのは大変なのに、ベルリンではダンサー良いねぇ!って笑顔で契約成立)晴れて新生活スタート。
友人たちに手伝ってもらって重いものを運んでもらい、日本に帰国する人に便利グッズも譲ってもらって助けられてばかりの引越し。ドイツは部屋を出るときに元に戻せばオッケーなので、ドリルで壁に穴開けてDIYは当たり前。日本でそんなもの使ったこともなかったけれど、やってみたい思いもあって自分でやってみると部屋が好みで快適な空間に。た、楽しい..!

【メモ】コミニュティサイト(わたしの場合は当時mixi)を活用して現地で家具やモノを集めていきました。お金をかけずに部屋も整えていけたりするのでその土地でみんなが利用しているコミニュティサイトを駆使していくことをオススメします!

時間かけて快適空間に。
黒の壁の棚は四人がかかりで取付したねぇ〜

パフォーマンス

生活が落ち着き、クラスを受けてばかりでは物足りなさを感じ始めてちょこちょこパフォーマンスにも参加させてもらったりしていきました。ベルリンはギャラリーも多く気軽に出れるイベントもなかなかあるのです。
そして知り合う人は美術関係や音楽関係の人も多く、ダンスしかしてこなかった自分には全く知らない世界が拡がっていて、本当に多くのことを見て聞いて知っていく豊かな日々でした。

トラックの荷台に土を敷き、泥にしてその泥とのパフォーマンス


サラダを用いたパフォーマンス

研修2年間で1番大きな作品は、ベルリンから南に5時間半ほど電車で行ったNurnbergという街にオーディションに行き、嬉しいことにクリエーションに参加できることになった6週間の滞在製作。自分史上の怪我と闘った作品、イタリア人と韓国人と3人で頑張った作品!

真ん中のYangは休みの日にも欧州内にオーディション受けに行ったり取り組みも真面目

Setanztheaerというプロダクションでの仕事。


様々なマテリアルと道具を使いこなして踊っていくのに身体慣れさせるの大変だった〜


Nurnbergはドイツ1クリスマスマーケットが有名で、ちょうどクリスマス前の本番だったため
リハーサルの合間でマーケット楽しんでました

【メモ】ドイツではちなみに日曜日はスーパーが全て休みでした。クリスマス前後3日、ニューイヤーもイースターも数日休み。なので休みに入る前は計画的に買いだめ(スーパー空いてない日曜日に家に何も無いことに気づいたときのショックったら...もちろんコンビニなんて便利な場所は無かったです)

ベルリン2年目

Nurnbegでの滞在製作の頃に2年目に入ってた研修生活。
ベルリンに戻ってきたら寒ーい冬がもうスタートしていて、前の年が特別な寒さって言われてたのにこの年も最高でマイナス10度(最低でマイナス14度笑)というまた別格の寒さだったんですよね…
太陽が顔を出さない日が40年以上ぶりに更新されたのも年が明けて2010年に入った頃だったかな。

暖房は24時間体制で入ってました
クリスマスは3日間くらいあちこちでパーティを楽しみ
我が家でやった日は友だちの知り合い(人形遣い)が来てくれて披露してくれた


ドイツ・ベルリンで暮らしてみて

とにかくドイツ人は話すのが好き。だから家に集まってよく飲んでました。見たものについて、政治について、日々あったことについて、もうとにかく夜な夜な。
Nurnbergでのクリエーション時にイタリア人のダンサーに「ミキはどうして自分の意見を言わない?」と言われたことがあり、確かに胸の内に秘めることが昔から多かったので考え直すきっかけにもなった貴重な時間。察してくれ文化はドイツにはなく、言語化して伝えることをより意識的にしていくようにしていました(これはいまでも少し苦手かな...)
そして、日本を離れてみて自分は日本のことを知らないで生きてきたことを改めて思い知りました。語学学校に行くと欧州や南米の人も多く、みんな自国のことを自慢げに話すことが多い。そんな中でわたしは話せることが少なかった。サムライ?京都?日本食?外国からの日本のイメージを払拭させるようなことを大きく伝えられない自分。この【日本を知らない】という悔しさが帰国してからの自分の動きに大きく影響を与えて行くのです、が。
日本を出ないと分からなかった。おそらく日本で暮らし続けていたら当たり前すぎて疑問も持たずに生き続けていたけれど、日本のことをもっと知りたい、と思えるようになったことはわたしにとって大きな気付きでした。

【メモ】ドイツでは陸続きであることもあって、隣国や周辺地域との歴史もカリキュラムで習っているので、自分の国がしてきたことはもちろん、他国との歴史を未だに引きずる人もしばしば。

残り半年のベルリン生活

同じ研修員のアヤカと単独performance
小さいギャラリーでの日本人2人のイベントに50人以上の人が見に来てくれた
ソロ「The Same Day」
アヤカ振付「Ao」

気になっていた2人に声がけして作った「Dreifache Opfergabe(三人の生贄)」
4回再演させてもらってあちこちで踊った。夏にはLeipzigでも
ベルリンラストパフォーマンス、最後の最後にドイツ語喋るので発音めっちゃ直されたね…

半年で毎月?ぐらいの勢いでperformanceがあって、ドタバタの日々。
それでもどの作品も話し合い、いまやれることを探求。

いろんな小劇場で踊るたびベルリンに住む人たちにたくさん世話になりながら本番を毎回迎えていて、とりわけTheaterhausMitteのGabiは優しさに溢れた人で相談に乗ってもらいながらすごく助けてもらいました。
たった2年でこんなに人に出会えるのか!といま振り返ってみてもいろんな国の多くの人に出会えて感謝しきりです。
そして帰国日が決まってからは後悔の無いよう残った日々を目まぐるしくエンジョイ。本番の合間で引っ越し準備、お別れパーティ、パフォーマンスも見れるものは見て、滞在を2ヶ月延期した2年1ヶ月の研修を終えて2010年11月に帰国。

ダンスのこと、芸術を取り巻く環境のこと、歴史のこと、日々の暮らしのこと、自分が何をしたいのかということ。
この記事を書くにあたり閉じていたブログを2年分見返して、大量にあるデータ写真も見返し、多くの人たちと交流を持っていたこと、たくさんのご飯を作って食べていたこと、初めて行く土地にワクワクしたこと、暇さえあれば劇場に足を運んでいたこと、ドイツ語を楽しんでいたこと、のんびりした街の空気が好きだったことなどなど次から次に思い出してきました。
ダンスが上手くなった、というより多くの振付家や演出家、作家の人たちや作品に刺激をもらい、自分も作品をつくっていきたい、と強く思うようになった実り多き2年間の研修。
たった2年とはいえ人生の中でも密度の濃い2年、ベルリンでわたしは本当に生活していたのか?って思うくらい文化も環境も違う時間軸でいま生活しているので、記憶を呼び覚ましこれを書き上げるのに前の2つよりかなり時間を要しました。まだまだ書きたいことはあるのですが、ひとまずここで。

2年間特別な時間を過ごし、得たモノをカタチにしていく作業が帰国してすぐに始まっていくのですが、それはまた次の記事で。

あちこちの土地にも行ったのでそれはまた別記事に







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