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踊り巡ってきた時間 #04 (20代後半〜東京/東北編)

2年の研修を終えて帰国してから創作ラッシュ。
地元・八戸で東京で、そして仙台へ。


ポータルミュージアムはっちオープンに向けて

帰国決断の決め手となったのは、地元・八戸で新しい施設がオープンするにあたり、市民ダンサーズと創るオープニング事業に演出補として入らないかと声がけいただいたこと。
ピンク時代から世話になっていたJCDN(Japan Contemporary Dance Network)が新しく踊りに行くぜ!!セカンドをオープンに合わせて八戸で開催するというんだから参加したい気持ちは強い。増して八戸に劇場を備えた施設ができるなんて興味深い。
やりたい!と即決で、帰国早々打ち合わせからのクリエーションに入っていったのでした。

このときは振付家の山田珠実さんの演出補として、やれることは何でも見つけてやってオープン前のはっち内をこれでもかと走りまわった。
自分が踊る以外のダンスの仕事も、演出補とは言え作品を創る側になるのも、アシスタント自体も何から何まで初めてのことばかり。
いざリハーサルが始まると、21時過ぎまで参加者と練習してその後打ち合わせして、毎日帰宅は日付が変わるころという遅い時間まで。
それ以上に、開館直前のはっちのスタッフはもう殺伐とした多忙極まりないピリピリモードで、こんな大変なものなのか...と肌で感じたことは今となっては笑い話。あのときは本当に大変だったんですよね。。。

高校卒業まで八戸に居たとは言え、当時わたしは自分のやりたいことだけ追いかけていて東京や西洋のものに目を向けてばかり。
八戸の街のことなど全く興味が無かった。
それがドイツ生活を経て自分の国/ 街を知りたい思いを募らせて帰ってきたら、こんな場所があったのか、こんな行事があったのか、こんな面白い人たちが居たのか、と通学して遊んでいた場所すら違って見える、そして出会いに溢れる毎日。意識の違いでモノの面白みを感じれる。
クリエーションは珠実さんがぐいぐい引っ張っていたので、いま作品の中で何が必要かはダンサーとしてのアンテナを張り提示して行く作業も作品作りと並行で行う。参加者はダンスをしたこと(習ったこと)が無い人も居る中、どうダンスにしていくかという最初は難題と思っていたことも、その人らしさが出せるよう作品を練りながら作品構成していき、無事に?3週間のリハーサルを経て、はっちのオープニング、そして踊りに行くぜ!!セカンドの舞台は幕を閉じたのでした。

オープニング時はわたしも一緒に踊ってはっちのオープンを祝いました

未来.Co(ミライドットコ)の立ち上げ

八戸での仕事がひと段落し、いよいよ自分のグループ立ち上げに向けて上京しようと意気込んでいる2011年3月11日、東日本大震災が起きました。
八戸の実家から見た海に飲まれて行く目の前の景色に圧倒され、2日間の停電を経て街に出ると見たこともない景色が拡がっていた。
父に『しっかり見ておけ』とだけ言われた。
そしてテレビをつけて見ると、何かのドラマかのような状況に言葉を失う。これは実世界のことなのか。

こんなときに自分は東京に行ってる場合だろうか?

舞台が作れるのだろうか?

そんなモヤモヤを抱えて生活を整えている最中、コンクールを目前に控えた八戸の高校生と練習を再開することにし稽古場で会った。お互い無事であったことを喜び、いざ稽古をしていくと地震前とは別人のような踊り。それは上手いというより凄みがある。
「どうしたの?今日の踊りはいままでと違うよ」と聞くと、彼女は「もう明日踊れないかもと思ったら」と言葉を紡いだのでした。
大きな被害は無かったとは言え、海沿いに住む彼女だって何かしら感じることはある。こうして稽古場でいま踊れても、明日また何かあったら踊れなくなるかもしれない、そういう思いが彼女の踊りを逞しくさせていたことを今でも鮮明に思い出します。

こんなときだから自分のやれることとやりたいことをやろう、と改めて思い直して上京。自分を含めた4人のダンサーと、強靭なスタッフワークでクリエーションのため稽古を重ねて頭を抱える日々がスタートしていきました。

「オーロラに旅」をして

3人のメンバーからこれでもかと良い瞬間をいくつも出してもらい、いま自分ができるものすべてつぎ込んだ作品「オーロラに旅」が2011年6月、横浜のSTスポットで初演。

立花和政さんによるチラシ

渡独前は、ピンクか自分のソロぐらいしか作品を創っていなかった中での自分が演出と構成を担うグループ作品。何年も溜め込んでいたものを爆発させられた手応えもあったし、様々な反応と感想をいただき、中でも師匠である美香さんから褒められたときはスタッフみんなで楽屋で喜んだものでした笑
改めて、初めての舵取りに大胆にしっかり付き合って身体を預けてくれた、綾野ちゃん、麻里子ちゃん、理恵ちゃん、ありがとう。

「オーロラに旅」(3回目の再演)2012年8月 @日暮里d-倉庫

震災後に仙台で作品を作る

この勢いのまま次の作品はどうしようかと思っている矢先、数ヶ月前に八戸であった踊りに行くぜセカンドが次は仙台で開催することを知る。振付家を募集するということで、八戸での経験の火を絶やさぬ前に次に繋げたいという思いで応募し何とか選出され仙台で滞在製作をすることが決定。

打ち合わせで仙台に行ったのは8月の中旬、震災からまだ半年も経過していなかった。駅前はすでに賑わいを取り戻していたことに驚き、ニュースから得る情報と少しズレを感じつつ、駅ビルの上から景色を見下ろしながら打ち合わせを進める。ペデストリアンデッキの人の行き来が一つの街みたい、と心が惹かれ、わたしたちだけの架空の街が作れないだろうかという着想から作品を創っていく準備が始まったのでした。

「街に生きる」

八戸同様、仙台でもダンスの経験の有無を問わない老若男女が集まってくれました。いったいこの人たちの素敵なところはどこだろう?と12月に1週間ほどの滞在でじっくり出演者を探る時間。様々なことを試してこれはいけるのかいけないのかをジャッジ。なにせみんなと稽古できる時間が限られているため、稽古時間以外は1人で作戦を練ることに多くの時間を費やし、滞在中読もうと思って持参したスーツケースの半分を埋めていた本たちは1冊も読みきれず、考えが甘かった….!
1月後半から本番までの2週間、このシーンは誰でいって、構成が決まっていって、通しをして、と怒涛の日々。アシスタントにニチジョ(大学)時代仲良くしていた後輩の手代木さんが入ってくれていたので心強かった!
一つうまくいけばどこかにヒビが入り、毎日神経を研ぎ澄ませながら本番に向かっていきましたが、2012年2月4日の本番、心打たれる21人のダンスに作家ながら涙して客席から見ていました。

2012年2月「街に生きる」@せんだいメディアテーク

当時、クリエーション中や終わった後に書いていたJCDNブログには、熱い言葉で思いを綴っています。詳しいことはこちらからどうぞ。

上演から1ヶ月が経った頃に再び仙台にてインタビューを受けたときの記事。


東京でしか良いダンスは生み出せないのではないか、というわたしの勝手な概念が崩され、震災からの思いもあり東北へ気持ちが向き始めるきっかけとなります。

未来.Co 2作目「また、28日後」

後ろ髪惹かれる思いで後にした仙台での感動の余韻に浸る間もなく、グループの新作クリエーションが再開。今回は劇場ではなく北品川にあるフリースペースでの上演。通常の舞台ではない場所での製作も割と好きなので、どうしていこうかとスタッフ含めて試行錯誤。相変わらずダンサーには大変な思いをかけてましたが、ただ振付を与えてこなしてもらう作り方に興味がないので今回もひたすら問いかけを続けて。この作品は、女性性へのアプローチでもあったので、あえて女性らしさを出したり引っ込めたり。
このときから制作に原さんがついてくれて、資生堂から協賛も得て本番へ。

2012年4月  未来.Co第2回公演「また、28日後」@北品川フリースペース楽間

ニチジョ生と「花火は打ち上げていく」

ドットコ(通称そう呼んでいた)の本番から、わずか1ヶ月半後にはニチジョ(母校)の在学生へ振付本番。13名のぴちぴち現役生たちに、踊るとは?を問い続ける。
脚をあげたら、まわったら、テクニックがあればダンスなのか?
自分が大学生のときに問われたことを今一度彼女たちに。
なかなか手強かったものの、ひと山越えて3回ある本番の3回めはやっと見たかった景色へ。

2012年5月「花火は打ち上げていく」@アサヒアートスクエア


クリエーション、発表、そして住まいを仙台へ

帰国して2011年の八戸での製作に始まり、2012年が終わるまでに実に多くの本番に恵まれました。使い回しなどあり得ずほぼ新作で挑むため、毎回「どうやってわたし作品創ってるんだっけ..」と経験に溺れる暇なく毎度頭を悩ませて。

帰国して2年。ベルリンで得た丁寧に生きることを目指すものの、東京に住みながら八戸や仙台に行き来しダンスを創って踊っていることへ充実はありつつ、東北でも何かできるのではないか?と踊りにいくぜでの縁もあり、
思い切って仙台へ引越すことを決める。
仙台でダンス活動ができるの?と多くの関係者に言われたものの、自分の直感を信じて、2013年1月いざ仙台へと動いたのでした。

仙台/ 東北に居てもできること

生活を整えたり、家庭を持ったこともあったりでしばらくゆっくりペースで仙台で何ができるだろうかと人と出会いながら探りつつ、東京で作ったグループ活動も継続したいがため、今度は仙台から東京へ通うことに。

2014年11月  未来.Co 第3回公演「月を運ぶ」@ハトの家倉庫

ダンサーは東京から、スタッフは東京と仙台在住メンバーとでタッグを組み、稽古は東京へ通って創り上げていく。
大事なものとは何なのか、という問いからスタートさせた作品。
ダンスするには過酷な状況下の倉庫を会場に選んでしまい、踊る側としても身体に鞭打ちスタッフにも苦労をかけましたが、仙台でなかなかダンスの公演が無い中、まして震災後という状況下のなか作品を上演できたことは意義あることと感じていました。

仙台の人と仙台で

いつまでも東京のダンサーに頼るわけにいかない。
メイドイン東北が一つの目標でもあったので、次作はオールスタッフ仙台在住メンバーでクリエーション。演劇が盛んな仙台に感化され、演劇人と交流を深めることが増えて居たわたしは、ベルリンで見たジャン・ジュネ「女中たち」が忘れられずそこからの発想で、製作スタート。
ダンサーは俳優3名でしたが、お見事なダンスでした。
室内が舞台であったので置く家具にしても照明にしても悩みましたね〜

2015年4月  未来.Co第4回公演「ラスト ラ ライ」@仙台演劇工房10-BOX

仙台に住まいを移しながらも、東京に八戸にとダンスをしに行き、見たいものは上京して見て、鳥取に1ヶ月の滞在製作をしたり別府に踊りに行ったり、あちこち移動しながらインプットとアウトプットをして生活を送る毎日。
仙台に引っ越してからワークショップをする機会も多くなり、これまでとは違ったダンスの発信の仕方を考える必要があり違う脳を使うこともまた刺激となりました。

塩釜にある杉村惇美術館では大切な時間がたくさん生まれたWSでした

子どもが2人となり、いざ預けようにもフリーランスの身では仙台で保育園に入ることは当時難しく、思うように活動しづらくなっていきました。
そんな中仕事で行った三陸(大船渡)へ大きな関心を抱くことがあり、自分の中で大きな転換期を迎えるのですが、それはまた次回の記事で。

長々と読んでいただき、ありがとうございました。



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