3月7日:不死鳥のごとく、復活
実は、27日未明から、ぶっ倒れて寝込んでいました。
はじめは、少し頭が痛くて、最後かもしれないからってちょっと頑張りすぎたかな?なんて思ってたら、だんだん頭痛がひどくなって、耐えられずに薬を飲みました。
そして、2日経って、なんとかそれが治まったと思ったら、今度は、のどの激痛が始まった。
病院は行ってないけど、後半は味覚障害もあったから、たぶんコロナウイルスにかかったんだと思う。
本当に、つらかった。。。
今もまだ、味覚障害がのこってるけど、やっとごはんが食べれる!てなったときに、味が全くわからなかったときの、絶望ったら、ない。
とは言え。
ある意味、このからだには、すごく助けられた。
だって、痛すぎて、つらすぎて、何かを自分の力でどうにかしようなんて、考えることすらできなかったから。
いまの状況で、からだが元気だったら、たぶん私は考えすぎていただろうし、また何かを頑張ろうとしたかもしれない。
コロナウイルスどころか、ここ5、6年、会社を辞めたくらいからは、シンプルな風邪で寝込んだ記憶すらなかった。
もしかしたら、ずっと抱えてくれていたのだろうか。
そのうえで、これ以上、背負ってくれだなんて、どうして思うことができる?
ありがとう、しかない。
それくらいに、この身体の痛みは、愛そのものだと感じた。
それでもやっぱり、いま現在の自分の状況を思い出しては、もうダメなんじゃないか?と、何度も思った。
わたしの言葉は、どこにも響かないかもしれない。
ただ、愚かだったということかもしれない。
現在も、携帯電話は止まったままだけれど、今日は、だいぶ身体が動くようになったから、ネットカフェまで歩いてくることができた。
でも、こうして、10日ぶりにネットを開くのも、正直こわかった。
ダメかもしれない。
だけど、そう思えるのは、いつも、頭の中の自分にとらわれているときだ。
お金をこうしなきゃ、とか。
この人がこうだから、とか。
やりたいけどできない、とか。
違う。
そうじゃない。
だって、望みだけを生きると決めたんだろう?
だから、”いま” が、あるんだよ。
★
はからずも、わたし自身が、倒れる前にのこした言葉に、しっかりと助けられた。
わたしが、ここまで歩いてきた、一歩一歩。
その道を、少しでも、言葉であらわせたこと。
それが、”いま”という未来を、創っているということ。
そして、その言葉を、まさに体現して生きている、”いま” がある。
できない!と思っているなら、安心していいよ。
それは、望みじゃないから。
望みは。
いつも、ここに在る。
いま、あなたが感じている、”それ” なんだよ。
そして、その存在に気づいたときには、すでにもう、始まっているんだ。
いずれ、目に見えるかたちになる。
ここに、”Spirit” が在る。
ここに、”Body”が在る。
いま、わたしたちは、ともに歩いている。
一振り。
一歩。
手と足が、動いている。
それだけで、なみだが出るくらい、うれしいんだ。
先のことは、わからない。
でも、大丈夫だ。
”HOME” がある。
ここにもどってくるとき、わたしたちは、互いに話すことができる。
感じることができる。
知ることができる。
そして、手を取り合うことができる。
それから、また次の一歩を、かならず進んでいくことができるんだよ。