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厄病神と福の神
夕方頃、滞納していた支払いをひとつ終えて、商店街を歩いていた。
嬉しくて、歩きながら踊り出したい気分になっていた。
今日払ったのは、誰からめぐってきたお金なのだろうか。どこからめぐってきたお金なのだろうか。はかりしれないことだ。
まだ次の支払いが・・・などと頭を過りつつも、やっぱり、嬉しくて仕方なかった。
電車に乗ってからも、あったかい気持ちで、ポケ〜っとしていた。
そしたら、ふと、声が聞こえた。
『福の神』
私『は・・・?』
『福の神』
というわけで。
また新たに、謎の実験を始める。
最近気づいた。
わたしは、実験が大好きだ。
今度はどんな実験なのかというと。
"自分は『福の神』だ!"というイメージで生きてみる、というものだ。
『福の神』とは、アレだ。節分の豆の包装紙とかに描いてある、打ち出の小槌を持った、耳たぶがでっかくて目が細いおじさんだ。
いや。馬鹿なのはわかっている。
恥ずかしいから、こっそりやろうと思っていた。
それでも、わたし的には、天地がひっくり返るくらいの衝撃だったので、ちょっと自慢したくて、書いている。
それと、この世紀の大発見によって、大げさかもだけど、巡り巡って、人一人のいのちくらい救えるんじゃねーか?ということを、そのときに感じた。
というか、救われたんだ。
わたしが。
量子の法則では、叶えたいものをイメージすることが大事だというが、実際には、イメージそのものではなく、潜在意識にある自分の信念が現実化する、ということだ。
突然、『福の神』と言われたわたしは、実際に『福の神』をヴィジュアル的にイメージしてみた。
そうしたら、『これぞ豊かさの象徴』的なおじさんが、やはり思い浮かんだ。もちろん、お金になど全く困っていそうには見えない。
豊かさとは、それだけじゃない。見た目は、打ち出の小槌を持って嬉しそうにはしゃいでる、ただのおじさんだが、その人の存在が、まわりの人たちも幸せにしているのだと感じた。
そしてそのとき、わたしは、はっきりと思ってしまったんだ。
わたしは、『福の神』でありたい、と。
実は。
わたしは、自分のことを、『厄病神』だと感じていた。書いているだけで悲しくなるけど、本当のことだった。そんなこと言ったら、自己卑下みたいで、自分も人も嫌な気持ちにさせるから、口にはしなかったけど。
わたしの中には、常にあった言葉であり、感覚だった。まわりの人が悲しんだり、まわりの人に疎ましいという顔をされたとき、わたしは『厄病神』だという感覚に、いつも襲われていた。
そのことを、思い出した。
だけど、さっき、『福の神』のイメージがあらわれたとき。わたしは、心底、そういう存在でありたいって、感じてしまった。
それで、自分が、『福の神』だってことを、実際に感じてみた。
そしたら、なんだか、本当にそうだなぁって思えてきた。そうで在りたいし、そうなれるし、すでにそうなんだなぁ、て。そう感じたときに、嬉しくて嬉しくて、涙が出てきてしまった。
電車の中で、独りで泣いた。
わたしは、いままで、自分を『厄病神』扱いしてきて、どれだけ傷ついてきたんだろう。傷つけてきたんだろう。
頭では、違うよ!ってわかってたつもりだけど、たぶん小さい頃から、知らないうちに植え付けられた感覚は、思ってる以上に、自分と一体化していた。
『厄病神』だと感じていることは、あまりにも辛すぎた。『言葉』が含む恐ろしさに、からだじゅうの細胞が、じわじわと蝕まれていくような感覚だった。
いままで、たとえばマリア様であることをイメージして!とか言われたら、実際そんなような気持ちになったりしてたのだけど、それでも、わたしは、『厄病神』のままだったんだ。ずっと。
それがだよ。
『福の神』ときたら、あまりにもそのヴィジュアルイメージが強烈すぎて。まぁ、呑気すぎて。
『厄病神』イメージが、完全に書き換わってしまうという事態が、起きてしまった。
みんなは、自分のことを、どんな神様だと思ってるんだろうか。
きっと、生まれてこの方ずっと、セルフイメージ『福の神』で生きてきた人も、たくさんいるんだと思う。それはそれで、めちゃくちゃ素晴らしいことだ。
だけど、なんとなく、わたしみたいに『厄病神』を背負って生きてきた人も、たぶん、いっぱいいるのだろうと思った。
『厄病神』は、いると思いますか?
ずっと自分のことを『厄病神』だと思ってきたわたしが、言う。
そんなものは、いない。
もしももしも、『厄病神』を背負って苦しみ続けてきた人がいたら。
試しに、騙されたと思って、想像してみてほしい。体感してみてほしい。
『福の神』である、自分の姿を。
まわりの愛する人たちが、幸せそうに笑っている姿を。
『福の神』だって、もし心から思えなかったとしても、少しでも笑って、少しでも涙を流して貰えたら、嬉しい。
わたしが、勝手に、嬉しい。
そんなこんなで、わたしは、自分を『福の神』だと感じて、過ごすことにした。
そうすることで、いままで以上に自分もまわりの人も幸せを感じられるような現実が、拡がっていくような気がして、ならない。気づいたら、潜在意識も書き換わっているに違いない。
これは、盛大で壮大な、実験だ。
夜中に、まじめにこんなことを書いて、きっと、アホだと思われるだろう。
あらためて、恥ずかしくなってきた。
がしかし、わたしは真剣だ。
『福の神』はさ、笑ってるんだよ。もしかしたら、本当はなんにも持っていないかもしれないけどさ。
それでも、『わたしには、自分もまわりも幸せにする力がある』って、信じて笑っているんだ。
ちなみに、『福の神』だって、怒るときは怒るだろう、悲しいときは泣くだろう、と思う。それでも、そんな自分を見て、『人間やっとるのう』て言って、笑ってるんじゃないかな。
わたしは、いつも『お金お金』と言っていると思うけど(笑)、決して、お金だけから幸せを貰ってるわけじゃない。
『愛するもの』の存在。
『お金』も含めて、わたしを真に幸せな気持ちにしてくれるのは、いつだって、『愛する』ということだ。
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