稽留流産 3
当時の私のメモ書きです。
稽留流産に関しては最後の投稿となります。
吐かせてください。
記しておかないと、記憶から消えてしまいそうなので、log残したいです。
いつ解離性健忘がでるかわからなくて不安なのもあります。
健忘の気配があるので、幼少期の記憶に関しても、自信を持ってなかなか話せないでいる、
ただそれだけ
昨年の事件をきっかけに私がカルト育ちの事を自覚し、家庭生活が上手くいかない理由もわかり、アル中で大暴れした時に発作で排斥された時の感情がフラバした事により、この界隈にたどり着きました。
それから、自分を見つめ直し向き合っていく作業続けてた。
私が本名を名乗らず、生きてきたことも健忘してしまいたい過去だったのかもしれないし、あの日々が夢であって欲しいと願ったかもしれない。
ただ、私は全てを受け入れて自分という器を再構築したかった。それが出来るタイミングでもあったから、喜ばしかった。
5/08妊娠判定陽性と出て、第二子を授かれたことがとても嬉しい半面、不安でした
それでも、私にとってのチャンスであると思ってすごく嬉しかった。
私は不妊の気配があるので尚更。産婦人科に行ったら心拍確認出来なくて、最悪の場合を告げられた5/12
最終診断が下った5/19。
排斥よりは辛くなかった。
ただ、事実に悲しいだけ。
何よりも辛いのは背中を摩ってくれる人がいないこの現実
夫も理解は無いし、実母には忌避されてる。
心の内を話せても触れ合って支えてもらうことが私にはできない。
今回は親近者がいない現実が排斥と同様に苦しくて辛くて。
流産した事は単に悲しいだけ。
不安が募り精神的にもきて、病院に連絡し緊急入院措置を測ってもらい、5/20入院手術。
「子宮内清掃術」という、術式名を見るだけで悲しくてずっとずっと一人で泣いてた。
強がることも出来ないくらいただ単に泣くそれだけ。私の中のJW精神なのか器が塵に還ったと思ったら気持ちが楽になってありがとう、と思えるようになった。でも、お腹に向かって子守唄を歌い続ける自分もいる。
私は泣いてるのに、また、誰にも見つけて貰えない。見つけて欲しい家族に見つけて貰えない。自分でSOSの出し方も忘れてきてしまった。ただ単に悲しい。
この数日、過去と現在を感情が行き来してる。私の過去の記憶が思い込みなのかもしれない。でも、私の記憶には鮮明に残ってる記憶達
これらを、きちんと受け止める勇気がずっと欲しくて自分を探してた。それがやっと見つかって受け入れられるその瞬間に流産の件。
神様がいればよかった。
神様なんていないし、理想の家族の作り方も愛し方もわからない。
退院して不満に思う所も沢山あったけどこんな私にも帰る家がある事実だけに感謝しようと思って、日々目の前のやるべきことを子なそうと思う。
暫くメンタルジェットコースターだ
少し、楽になった。
理解者を少しづつ増やすことでしか自分の癒し方がわからないんです。読んでくれた人ありがとう。
わたし は 生きてます。