わたし が 棄てたもの
わたしの高校生活は、アルバイトのおかげでとてもキラキラするようになった。
勿論、出る杭は打たれると言われるように、いろんなSNSでとっても叩かれてきたけど、ストーカー被害も1件で終わり、お客様も順調に増えて、わたしは順調だった。
が、やはり落ち込む時は落ち込むし、病む時は病む。
この時のわたしは病みすぎて人生を諦めても死ねない現実にぶち当たった後で、人生を諦めることに疲れてODをしなくなっていたけど、安定剤は手放せない。そんな生活をしていた。
接客業だし、アルバイトに支障が出ない程度にリストカットもしていたけど、ちょっと間違えて支障が出てしまうことも多々あった。
無駄に薬の名前の知識やどう飲んだらキケンなのか、
どう手首に刃物を当てればこの量の血が出るのか、
そんなことに猟奇的なほど詳しくなっていたのもちょうどこのころだった。
精神が堕ちたときの理由は決まっていて、
嫌なことがあって その嫌なことに関して
考え続けてしまう時に、闇深く堕ちてしまっていた。
堕ちていく自分がとても辛くて仕方がないのになぜか「可哀想な自分」が楽しくて、やめたくてもやめられず、自分の思考に嫌気がさしていたのもこの頃だった。
自分の考え方を変えたいがために、ある日自己分析をしてみることにした。
善いものは残し 弊害がありそうな 考え方を含め価値観を見直すことにした。
選んだその選択の先に一筋の光があるのであれば、ソレは善いものだし、光が見えそうにもないことは弊害がある、と見なして棄てようと思った。
人は病みすぎると突拍子もないことを考えるみたいで、我ながらにもこの歳でこんなこと考える人はいるのだろうか?と疑問に感じてもいた。だって当時はまだ高校1・2年生の話だからだ。
どうしてこの考え方になったのかというと、当時泣くほど どハマりしていた漫画「フルーツバスケット」の影響だと言えるだろう。
(この時の趣味はアニメのコスプレイベントだったくらいヲタクを極めていた)
わたしのまだ短い人生の中で棄てたものを考えてみると
幼少期とも言えるJW現役時代の自分の人格
排斥された時のわたしの気持ち
わたし の本名
(改名してないけど誰も本名を知らないまでになっていた)
忌避による家族
離婚によるわたしの両親
排斥により育ての親たち
エホバ的な善悪の分別
わたしの異性に関する価値観
性的価値観
などなど、思春期とも言える中学生時代に捨てた“わたし“はこのようなものだった。
それらを棄てて得たものは
お金
以前に比べて健康的な心身
新しい ジブン と 新しい 名前
ちょうどいい感じに記憶喪失
精神疾患もだいぶ治った来てた
わたしを受け入れてくれる友達
働く楽しさ
いつも応援してくれるお客様
自分の居場所
自分の味方
親がいないわたしの世界
とても辛くて怖いことを経験してきたかもしれないし
年齢の割に経験しなくていいこともたくさんあったと思うけど
“今“を生きている以上、過去には戻れない。
過去に戻れるならわたしもやり直したいことがたくさんある。
だけどそれは全知全能の神といわれるエホバでも起こせない奇跡かもしれない。
だからこそ、過去を悔やんで悩む時間も大切だけど、悩み切ったら前を向いて過去を振り返らないようにする。そうしないと、もう傷つきすぎてきたわたしはどうしたらいいのかが、本当にわからない。それこそ隕石でも降ってきてもらいたい気分だ。
だから、何かトラブルがあったとしても「〇〇を乗り越えたら〇〇が得られるかも…?」
という期待をしないと何も手がつけられない。まるでそれはスライムを倒したら経験値が少し上がるだけに見えるかもしれない。でもそのひとつの経験値に賭けてみないとわたしは闇に飲み込まれてしまいそうな、そんな状態だった。
それに、トラブルを乗り越えないとしたらニートの引きこもり生活にまた戻ってしまう気がした。あの家でニート引きこもりとか余計に精神衛生上良くなさそうだからそれだけは辞めたい。それだけは絶対に、だ。
よく父や祖父に言われた
「若い時は人がやらないような苦労を買ってでろ」というセリフを、わたしは頭の中で大事にし舞い込んでそれに習ってるつもりだった。
わたしはわたしの人生に覚悟を持って生きる、でもまだ遊びたいし知らないことが多いからこそ、ワクワクしたり不安に感じることでも恐れずにチャレンジしていきたい。
もちろん、ドラッグや殺人など、犯罪になるようなことはやらない、と決意をした上で。
例え、わたしの価値観では否定的な問題だとしても、今後の“わたし“には必要な考え方なのかも知れない、もし、間違っていたり失敗したらその時は素直に受け入れて間違えたことを治していこう。
神様はいるかいないかわからないけど、きっと全知全能の神様なら許してくれるであろう、という期待を込めて、ひとつの幸せを得るために当時のわたしは決意をした。
では、わたしの私生活、要するに習慣の見直しはどうだろう
安定剤飲む量はだいぶ落ち着いてきた
リストカットは辞められない。もうこれは依存に近い。
食事に関しては1日に1食しか食べれない、食べても味がしないしお腹も空かない…
化粧はよくわからない
身体の手入れは毎月エステに通ってる。女である以上、見た目には気をつけないと。
夜遊びもだいぶ辞めてきて、今では月に1度くらい。
自分を売ることもアルバイトのお陰でしなくなってきた。
原宿通いも卒業できそうだ。
理想は薬を飲む量を最低限に調節して
自傷行為は依存先のひとつとして受け入れよう
食事は外食ばかりだからどうせ食べるなら「健康」によさそうなものを選んでみよう
化粧はこのままで
エステもお金がある限りは続けて…うん、前に比べたらいい感じ。
今はメインでコンカフェ勤務だからこそ
情報収集のためにアニメも見てコスプレもして日経新聞も読んでわたしはわたしを充実させよう!
と、初めて自分の人生に前向きになれたのも高校生の時だった
大好きな服を自分で稼いだお金で買えることも嬉しかった。
初めてこの時にJWでの自分を辛かったけど棄ててよかった、と思えた頃だった。
この時母からは忌避もされていたが、顔を合わせれば会話位あって
洋服かわいいわね〜くらいの話はできていた。
都合のいい親だな、と思っていたのを覚えてる。
実家での寝泊まりがさほど辛くなくなってきたころ、突然真夜中に携帯電話が鳴った。
父方のいとこからの電話で要件は「祖父の訃報」だった。
話を聞くと、お通夜の最中だそうで明日は火葬とのことだった。
なんで来ないの?と泣きながら訴えられた。
慌てて父に電話をするが、父は忙しいのか繋がらない。。。
頭の中がパニックだ、どうしよう。
離婚も成立していることだし、わたしは「離縁した娘」だからこそ、勝手にお葬式の現場に行ってもいいのかわからない。
叔父に電話して、状況を知らされていないこと、行ってもよければぜひ行きたいこと、勝手にいくことで父に怒られないかが不安だった。
叔父は全責任は俺が取るからおいで、とありがたいことに言ってもらえてわたしは始発の電車で行くことにした。
母に伝えると、離婚をしているしエホバだからいけない、とお決まり文句を言われたのでため息をついたが、一応参加する旨は伝えられたので従姉妹から聞いた住所と葬儀場の場所を確認して向かった。
朝の7時に父と連絡がついて話すと、来るのは勝手だが、会社の人が来てるから忙しいし俺に迷惑かけるなよ。と手短に言われ電話を切られた。
電車の都合で朝の8時に到着の旨も伝え、制服を着て家を飛び出た。
駅前だと言われたけど、もうテンパっていて地図も読めなくなっていたわたしは1メーターでもタクシーに乗ってそこに向かった。
未成年が葬儀場にタクシーで登場したら「未成年なのに」と言われそうで、会場の手前で降りた。
お寺なのか、葬儀場なのか判断はつかない趣のある和風な場所だった。
私の思っていたような葬儀場ではなくて、とても戸惑ったのを覚えている。
案内状を見ると、午前中の予定は我が家だけらしい。
なので、我が親族を探そうとして当たりを見渡すと、そこには
そこには朝の8時とは思えないほどの行列ができていた。
例えるならアイドルの握手会並みに長蛇の列。
おかしいな…と感じ、親族に出会えないことに不安を感じたわたしはまるで「迷子になった子供」のような気持ちだった。
遠くから、手を振って近づいてくるおばさんがいた。
父の会社の事務員さんだった。
「よく来たねえ!」
「いつもお世話になっております。遅くなりました。父はどちらですか?」
「今、手が離せなそうだからおじいちゃんの所に行って待ってようか!」
「……はい」
娘としての直感がなんだかオカシイと警鐘している。
軽トラック3台ほどにに花輪が積まれて式場外へ出ていく車や、高級車が入れ代わり立ち代わりやってくる。それを横目に
アイドルの握手会なみの行列を掻い潜っていくとそこにはおじいちゃんの大きな写真があった。
立ち止まる暇もなく、来場者の好奇な目に晒されて歩く制服の私。
ぼそぼそと噂されてる。「あの子、だれ…?」「どこの子…?」と
そんな話が耳に入り、居心地が悪く感じ萎縮してしまう。
わたしはこの家の子…の、はず。なのに、、、
この時さらに自覚する。
まだ父に捨てられた傷が治ってないことに。
手を引かれるまま、やっと2階の宴会場にたどりつけた。
下のフロアよりは人が少なく感じる。
みんなここで一夜をすごしたのか座布団の上で寝てる人もいるし、お寿司がひっきりなしと配膳されている。
「ほら、あそこにいるよ」と指さされたそれは、白くて細長い箱。
みたいような、見たくないような…
恐る恐る近づくとおじいちゃんだった。
祖父の近くにいた人がわたしに気がつく。
「えっ?…お嬢さん?お久しぶりですね」
声をかけてもらったにも関わらずわたしは涙が止まらなくて返事ができない。
外聞を気にすることも出来ず、その場で泣き崩れてしまったんだ。
従姉妹が話しかけてくる。
「あなたが初めて働いて稼いだお金でハンカチ、送ったんだって?じいちゃん、入院の時もずっとあなたと、弟くんのこと心配してて、息を引き取るその瞬間までそのハンカチ握ってたんだよ」
と、聞いたその瞬間
わたしは、滅多に会えなかった祖父だったけど愛を感じて心が暖かくなると同時にさらに涙が溢れ出た。止められない。子どものように泣いた。
祖父は、子供が大好きだった。
鳩を捕まえてくれたり、公園遊びを教えてくれたり、思い返すと、”わたし”を見てくれていた数少ない人だった。
最初で最後のハンカチのプレゼント。
渡せてよかった。
きちんと働いたお金で買えて渡せて本当に良かった。
自分を売ったお金でなくてよかった…とこの時は安堵した。
泣きながら大好きだったおじいちゃんに近況報告や今まで後悔してることなどを遺体のそばで祈るように語っていたら、いつの間にか、寝てしまっていた。
肩をゆらされて起きると、下に降りて準備をするようにと言われ、わたしは数百席もあるようなパイプ椅子のどれに座ればいいのかわからず、従姉妹に確認しながら親族列の末席に座った。
キョロキョロと辺りを見回すと、やっと父を見つけた。
喪主は叔父だった。
父は座っている。
祖母の隣に金髪のおばさんが居る。
…だれ?
不思議に思いつつも、わたしはここで察する。
わたしに連絡がなかったのは新しい「お義母さん」がいるからか。
離婚して1年も経ってないのによくもまあ、やるな。と、素直に思った記憶がある。
同時に男性という生き物に対しての信用度も落ちていった。
だから、娘が会場にきても知らないフリをして接待に勤しみ、祖母の面倒を叔母ではなく、新しい義母にやらせるの?え、おかしくない?ん?
と、ご焼香の最中なのに、わたしは怒りが込み上げてくる。プチパニックだ。
「えっ、あんなケバ女が最前列でわたしだけ末席?えっ??」
唇をかみ締めて怒りを押えていたら、
SPを従えて雰囲気の違う人達が入ってきた。
超絶有名人がご焼香しにきていた。
悲しさや怒りはその瞬間にどこかへ飛んでいく。
日本国民なら誰もが知る人たちだからだ。
しかも、SPの数も半端ないし、オーラが違う。
そこでハッ、とする
そういえば、この会場にいる人たちも存在感が違う。
だから、「わたし」は場違いなんだ。
なにも経験もなくて社会から見たら単なるコドモにしか過ぎないから。
父に言われた言葉を思い返す
人脈は金脈
コドモだからって許されてるうちは、相手にはされない。
対等に、なおかつ意志を持ちつつ、謙虚さを示さねば、会話すらもさせて貰えない。
これは、親族と名乗る以前に試練なんだ……!と理解をしたその瞬間わたしは仕事モードに入って、「父の娘」として率先して挨拶を交わすようになる。
もちろん、このあと父に嫌味も言われたが
義母の嫌味を含めた発言にもブチ切れてしまったわたしは、祖父の家に戻って、父と二人で話しをしてる間に、人生初めて「馬乗りになって父をボコ殴り」してしまう。
ボコ殴りといっても力では叶わない相手に殴りかかるだけなので、父は殴られることを受け入れてくれていた、んだと思う。この時、2人して恥じらいもなく泣きあったのを覚えてる。
義母との出会いが最悪すぎてこの日しか会ったことないし、話もしたことない。
すぐに別れろ!と、わたしも訴えていたからか、翌年には父はバツ2になっていた。
後日談としてこの規模の葬儀をどう取り持ったのか確認すると、父の会社名義での葬儀だったらしく、父が1番仕事がうまくいってた時だからこそ、この規模だったことがわかった。
この経験をもとにわたしは、町工場の社長だと思っていた父が何者なのか改めて探し直し、「人脈は金脈」という言葉を生涯大事にすることになる。
まだこの時は、父たちの血筋をまだなにもわかっていなかった。