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心身共に大きな事故

話が長くなるかもしれない。

20歳頃の時、エホバの証人での幼なじみと、成人記念も兼ねて幼少期を共にすごしたメンバーで集まった。
私を入れて女2人、男2人
小学生の時に、集会中にチックの症状が出て、フェードアウトした、女の子の二世
家族の一員がベテルに入って、女兄弟の中で過ごしてた男の子の二世
兄や姉は集会に行かなくなったけど、お母さんのために集会だけはいってた、男の子の二世

みんなそれぞれの理由でフェードアウトしてる。
元々幼なじみは全部で6人いた。

この日来なかったのは2人。
ひとりは、家族みんなエホバの証人で、フェードアウト組とは関わらない、関われないMちゃん。

もうひとりは、私の初恋の男の子のKだった。

何年ぶりかの再会にいろんな話に花が咲く。
みんな、私が排斥されたことを知っていても、会ってくれていた。
私が排斥者だからそれぞれ、親には内緒で集まってきてた。

あの子どうしてる?
あの姉妹は?
あの兄弟は?

私は夢にまで出てくる会衆の仲間の生存確認をしていった。とっても嬉しかった。
他のメンバーはなんでそんなに気になるの?と言いたげだ。私の想いなど露ほども知らないのだろう。
わたしはもう会えないし関われないけど、みんなが生きていて、幸せでいてくれれば嬉しい、と本気で思ってた。

私「ねぇ、Mちゃんが来れないのはわかるの。神権家族だし、会えないと思ってたからね。Kくんは?元気?」

「……もしかして知らないのか。」

私「え?」

「…噂程度なんだけど死んだみたいだよ」

え?なんで?

「自殺って推測してる」
「ほぼ自殺だよねあれは」

「…K君、2歳の時から迫害されてたから?もしかしてそれで?」

「だと思うんだよね、正直不自然な話が多くて」

「え?会衆で発表しないの?」

「無いんだよ」

「○○のお母さん情報ツウでしょ?話入らないの?」

「残念ながらウチにも入ってきてない」

「そ、んな…ことある?」

「あるみたいだよ」

そこに感情が無いかのように淡々と話が進められていく。
私達の幼なじみの話では無いのか、と思いながらも話を聞かせてもらうしか出来なかった

K君は、ひとつ年下の男の子で可愛らしかった。
女子からも人気で優しい男の子。

お母さんが熱心な姉妹で
お父さんは非信者。
お父さんが熱心にエホバの証人の反対を訴えていて、集会にどうしたら行かなくなるのか?と真剣に考えていた人だった。

私が覚えてるのは私が4・5際の時、
K君のお母さんが軟禁されてしまって、集会に行けない、って言われたこと。
その頃、K君を連れて王国会館にすら来れなくなってたこと。
K君はしばしば、父方の実家に預けられることが多かったこと。
見た目でわかるような殴られた傷が姉妹にあったこと。
猛反対されていても、熱心だった姉妹。
話によると、熱心な姉妹に対して、消極的になって行くK君。
何がなんでも関わらせないぞ!と言うお父さんの意思なのか、彼は地元の学校にも通わず、私立に進学したと聞いていた。

仲は良かったけど、事態が事態だったのでK君とはレクレーションでしか会えなかったこともある。
同世代の私たちはK君親子の話はある意味タブーで、触れてはいけない話でもあった。理由は知らない。

話に聞かないからてっきり、元気に世の人として過ごしてるのと思ったのに、まさかの自殺。
ショックだった。
でも、私は心の中で「やっと死ねて良かったねぇ」とすら感じた。自分でも思うが狂気に満ちていると思う。
しかも、それは幼なじみの男の子で、私の初恋の相手に思うことでは無い。

JWでは自殺したら楽園での復活は無い、できないと言われてる。
それに、輸血が必要になっても拒否するのが教団の教理だ。
私たちだって、小学生の頃から輸血拒否のカードを、持ち歩いていた。

自殺することでJWの呪縛から逃げられるのではないか、と私も考えたことがあるから余計だ。
悲しくて辛くて寂しかったけど、よかったね、とすら思えて、安心した。
私は死ねなかったけど、死ねたんだね、と。
どの道を選んでも辛くて茨の道なら、とも思ってしまう。

このK君のことは本当に記憶に残っていて、どんな形であれ、幸せでいて欲しかった。

それから数日間、私は過去のトラウマやJWとしての思考、考え方に囚われて泣き叫び狂った日々が続いてく。
自分自身で俯瞰して見てもあれはヒドイ
まるで獣が大暴れしてるかのようだ。
理性もなくただ、単に暴れて刃物を振り回し、自分を傷つけ、酒を煽り、安定剤を飲み、我を忘れて力尽きて死んだように眠る。これを繰り返す日々。

こんな表現でしか辛い気持ちを処理できない自分が嫌だった。
駆けつけてくれた友達にも申し訳なかった。
相手を切りつけてしまうかもしれないのに、私を止めに来てくれていた。
申し訳ない気持ちもあるが、
でも、そうでもしないと私の心がまた、
崩れて再形成が不可能になると思ったのだ。
暴れることで何かを訴えたかったのかもしれない。

その反動か、また私は彼氏を作る。要するに性に対して依存していくことになる。
次の彼氏は、嫌なことを忘れさせてくれる人にした。
バイクが好きな彼だった。休みの日はよくツーリングに出かけた。

彼のバイクの後ろに乗って、近郊エリアをドライブするのが楽しかった。
風を切って走る事で、″自由″を得られた気がする。
その瞬間だけでも得られた気がした。
わたしはわたしなんだ、と認めることが出来た。
夜風を浴びて切なくて辛くて悲しくて涙を流すこともあった。でもこの涙は流せば流すほど、前向きになれる涙だった。

そんな彼とタンデムツーリングしていた先で交通事故にあった。
彼は全身打撲
後ろに乗っていた私はバイクと縁石に挟まれて、左足の腓骨神経損傷、そして心因性のストレス障害になった。

国家資格受験する年に、起きた事故。

しかも、ツーリング帰りの事故。

ぶっ飛ばされながらもわたしは
あー あ
って思った。

時間は真夜中
今から救急車呼んで、保護者のお迎え…
タクシーで帰るにも距離的に数万の距離…
うー…ん。

ここで悩む問題がある。
私の実母は「迷惑をかけられる」のがとても嫌な人。
「夜中だから」「車がないから」「お金かかるし」救急搬送されている病院まで【迎えに行けない】と言うような人だ。

というか、予想は的中してそう言われた。

夜中に電話がかかってきたから、最悪の事態を想定して何事かと思って驚いたじゃない!驚かせないで!

というコメント付きで。

どうにかならないの?

と電話越しで言われる。
病院で彼は松葉杖
私は車椅子。

2人とも20代前半。

私の実家はなんて非常識なのだろう、と思った。
もちろん、離縁してる父には電話も通じない。
(20時以降は携帯電源OFFの人)

彼の親御さんが1時間以上かけて迎えに来てくれた。
その日は泊まらせてもらうことになった。
翌朝も、一人で帰るのが難しく彼のお父さんが自宅まで送ってくれた。

どこまでも我が道を歩む親に恥ずかしさが隠せない。
申し訳ない気持ちを抱きながら、輸血が必要な事故にならなくてよかったと思う。
どうしよう、どうしようどうしよう。母がめんどくさい。どうしよう…
頭の中はこれだけだ。
どうにかして穏便に今回の事故を処理したかった。

たまたまこのバイク、任意保険に入る直前だったため、自賠責保険しか加入しておらず、大変だった。

彼は全身打撲で全治10日ほど。
私は結局治るのに1年近くかかったからだ。
加害者側の保険屋と渡り歩くにはどうしたらいいか。
事故をして帰宅してまず最初に考えたことはこれだった。

彼のご両親は素知らぬ振り
私の親は相手の保険屋の言いなりになるであろう。
私1人、どうすることも出来ず、無力なことが嫌だった。悔しかった。
離縁してる父に電話をし、頭を下げた。
「任意入ってない単車に乗った私が浅はかだった。このまま泣き寝入りしたくない。母はポンコツ。自分でどうにかしたい。1度だけ力を貸してほしい」と頼んだ。

隠す必要もあまりないけど、父は″エンジン″がつくものならば専門の人だった。
多数の交通事故も見てきて、処理してきてる人だった。不幸中の幸いとはきっとこのことだと感じた。

父の会社で契約してる交通事故を主に扱う弁護士事務所を紹介してもらい、私個人として契約を結ばせてもらうことにした。

父からは、弁護士に頼り切るな、自分の知恵もつけろ、ということで「赤本」「青本」と言われるものも読んで学んだ。

最初の3ヶ月ほどは車椅子
それから数ヶ月は松葉杖
学校の往復はtaxi通学
アルバイトも休み
国家試験は目の前。
痛みに耐えながら医学を勉強をしていく。
薬の副作用で眠気も半端ない。
覚えたことが次々に抜けていく。
まるで、勉強してもなかった事のようになっていく。
テストを受ければ受けるほど、下がり続ける成績。
合格ラインをキープしていたのに交通事故をきっかけにドンドン不合格ラインに近づいていく。
受験日が近づけば近づくほど、相手の保険屋からは「まだ治らないの?」と圧力もかかる。
休憩時間は大体、保険屋との電話で潰れ、テスト前勉強すらもする暇がなかった。


受験日から3か月前。
私は彼氏とも縁を切り、夢に向かって気合を入れることにした。
それは、毎朝4:30に起きて5:00~勉強だ。
季節は冬
めちゃくちゃ寒かった。
おにぎり片手に勉強して頭が冴えてきた頃にはtaxiに乗り、また勉強。
学校についたら教室に入って、朝勉。
そして授業を受けて、放課後また居残り、夜中の23:00まで勉強。
帰宅はいつも25:00
寝るのは25:30
起きるのは朝の4:30
めちゃくちゃなスケジュールで猛勉強してやっと合格した㊗️

センター試験も
進学受験も
車の免許も
なーんの受験もしたことない私が
交通事故にあっても
国家試験を合格できた、この事実がさらに自信を付けさせてくれた。

晴れて私は有資格者になり
やっと、父から「1人の人間」として認めてもらえるようになった。
もちろん、母も喜んではくれたが相変わらず嫌味っぽい。

就職先も交通事故のお陰で無くしたが、
運がよく、先輩の経営する治療院で働くことができた。

学生のうちに弟子入りもした
リラクゼーションのキャリアもある
あとは本当に資格を得るだけだった。

こんな死ぬほどの努力をしたのは
バプテスマ を受けた時以来だった。
どんな過去があってもやれば出来るんだ、という自信に変わった経験だった。

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