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アルバイト

わたしは高校生になっていた。

誕生日が4月なので進学と同時に入学の季節がやってくる。

一応、母方の実家にはエホバの証人内部での出来事を無かった事にして、表向きには親子が仲良いって演出をしていたので、いがみ合いながらも高校入学祝いの家族写真を祖父母と撮ったりしていた。
もう、この頃には両親の離婚も成立していた気がする。

家を出たにもかかわらず、両親の離婚にはとっっても振り回されて、家庭裁判所での裁判にもなった。すっっっごくメンヘラな母の面倒を見たりなんなりとあって、わたしの記憶にはあまりない。
というか、胸糞悪すぎて思い出したくもない。
なので割愛する。そのうち書けたら書こうと思うw


わたしの選んだ学校は少し変わった通信の学校。
毎日授業があって、単位を取れば通信でも3年間で卒業できる、というシステムだった

どうやってこの学校を見つけたか?というと
フリースクールにあった本のひとつが、この高校について書かれた本だった。

個性が豊かすぎる先生たちが
個性豊かな学生を認めて
専門授業もつけていたくらいの
半ば「専門学校…?」って思えるほどの学校だった。
この本を読んだ時、これだ!と思った私は母に掛け合う。
私立なので学費が無理とか言われた気もしたけど、ゴリ押しで無理やり通して、奨学金で通うことになった。
高い!という理由だけで大した工夫もせず、奨学金の詳細すらも調べない母を動かすのは苦労した。思い出しても胸焼けする。オエッ

不登校児やヤンキー(不良)が通うことの多い学校だったので、もちろんカウンセラーもいる。
このカウンセラー、実は腐女子だ。生徒と一緒に新作のBLこみっくすの話を討論するような先生だった

担任の先生は女の人で、豪快に笑う笑顔耐えない先生
この方、教科は理科と数学で部活指導は演劇部だった。

…彼女も腐女子でヲタクだった。
しかも彼女はかわいい女の子にかわいい服を着せたり作るのが好き、という理由でコスプレ部も作っていた。
演劇部に関してはミュージカルが大好きとのことで顧問をしていた。

国語なんてとっても真面目な科目のはずなのに、先生は特撮やガンダムヲタクで大のサッカー好き。
わたしに特撮談義を持ちかけてくるほどだった。

理事長先生はもっぱらガンダム一筋の先生。
理事長がヲタクって有り得る?

なんと、教員全てがガチでヲタクなのだ。
にわかヲタクがいると、先生同士ネタにされるほどだった。

ちなみに、先輩たちの間では、教員をモデルにした同人誌も制作されていた。w

外部講師の先生たちで、覚えてるのは
有名なアニメの声優さんが指導する「声優学科」
モデル指導をする学科「モデルコース」があったり
プロのドラマーから習える「ドラム学科」
…本当に個性が豊かな学校だ。

教員もフレンドリーで正面から生徒と向き合うような学校でとてもお世話になった。、

もちろん、私服登校と制服登校があってわたしは私服登校してた。
登校初日から彼氏同伴で(初カレ)
ロリータファッションしていて
めっちゃド派手。

めっちゃ目立ってたはずなのに、
担任の先生は「かっっわいい子が我がクラスにやってきた!」といって有頂天
早速、部活の勧誘をされた。
その部活の名前は「コスプレ部」笑

アルバイトをしたいから部活は、と断ろうとしたら「月に一度の活動でいい!」と押し切られ、先輩後輩がめんどくさいと伝えれば「やる気になった時だけでも来て!」と言われてしぶしぶ入部することになった。
当時の彼氏の影響でアニメが大好きだったし、コスプレに興味はまだなかったけど、ロリータファッションでも良いと言ってくれてたから受け入れることにした。

教室では隣の席の子は無口なギャルだった。
ギャル の 隣に ロリータファッション な わたし
先生たちに点呼の時、からかわれた記憶がある。
点呼の時だけ本名で呼ばれるが、ワケあり学生が多いこの学校ではHNで呼ばれたり親しみを込めて愛称で先生も呼んだりするのが日常であったため、わたしはすぐに エホバの証人である自分の名前を忘れることができた。

入学してからのわたしは
「働ける年齢」になったからきちんと「雇用」されることが目標だった。
どんな仕事につこうかな〜🤔と考えた時、父からの話を思い出した。
「今しか出来ないことを経験しろ。
みんなが選ぶ事もいいかもしれないが、人と違った経験をすることでそれは自分の糧になる」
という言葉だった。

わたしは根本的なことを考えることにする。
仕事とは何か?と考える。
お金を貰うこととは?と考える。
どうしてだろう、なんでだろう。
働くのにあたり心意義をとても考えた。
その上で、わたしは「人と違った職」もしたいし
「みんながやる職」もやってみたくなり
仕事を掛け持つことにした。
仕事を掛け持つことで、時間を有効的に使えて好きなシフトで好きな時間で働けそう、と考えた。

人と違った職、をテーマに考えると
自分の好きなこと×人と違った職 をやってみたくなって、調べていくと「メイド喫茶」というものを見つけた。

今で言う、コンカフェ嬢にあたる。

でも当時のメイドとは、地下アイドルやグラビアアイドルや演者さんたちがシフトに融通効く仕事、として選んでいたものであって、学生のアルバイトというイメージは全くなかった。
それもそのはずで、学生求人は都内でも10件ちょっとしか無かったような時代だったのだ。

片っ端から応募していく
片っ端から面接受けていく
片っ端から落ちていく。

でも諦めない。

そこで、面接に受かったのが11件目に応募した「メイドさんがリフレクソロジーをする店」だった。

オーナーもバーターとして雇うくらいで真に受けてなかったのだが、わたしは合格したことと、お客様に尽くしたことで「ありがとう」、と正当な対価を貰えるこの仕事にやりがいを感じた。
夢にまで見た、「自分で正当に稼ぐこと」だったからだ。
指名0からナンバーワンになるまでにそう時間はかからなかった。

エホバの証人で培った隣人を愛しなさい、と
慈しみ憐れみなさい、が役立った瞬間でもあった笑
その結果、新聞、雑誌、海外誌、バラエティと出演もさせて貰えた。

このお店ではアニメの話や好きな趣味の話も楽しくお客様とできるし、わたしにとっては楽園のようだった。
それくらい、働くことにどハマりしていて、週に6日 朝から夜まで働いていた。
ちなみに、よく聞かれるのだがマッサージ研修はほぼなく、本を見て学ぶ。が基本だったそんな適当な時代。

お客様からありがとう、と言われるのが嬉しくてもっと言われたい!と思ったわたしはマッサージを頑張った。
その結果、腱鞘炎になり業務不可になってしまう…。
その間、選んだ道は包帯しながらも1日8h炎天下の元、チラシを配り続けることだった。
1ヶ月ほどこの生活をしていたらわたしの努力が報われたのか、オーナーが「資格をとってみないか」と提案をしてくれ、わたしはめでたく「リラクゼーション認定」を当時業界最年少の高校一年生でとることになった。

もちろん、勉強もしたし
見慣れないツボの名前も覚えて
やり方もずっとずっと勉強してた。
聖書を研究する要領で学んでも……なぜか記憶に残らない。
あれ?おかしいな ……
と違和感を感じたわたしは「ダメなら別の勉強の仕方を覚えるしかない」と思って、高校へ行き授業には出ずに、暇そうな先生を捕まえて資格の勉強を始め出す。
やっとのことで合格したのだ。

あの努力と、あの喜びは忘れようもない。
泣きながら試験の先生と抱き合って喜んだ。
わたしは、座学よりも実技の方が得意だったみたいで、実技に関しては問題もなくパーフェクトに近かったのだが、座学が苦手すぎてとても苦労をした覚えがある。

電車に乗りながら
歩きながら
授業中
バイトの合間
と、無我夢中になって勉強した末に受かったのだから嬉しくて仕方がなかった。

「なにもできない」
「どうせなにもできない」
「根性がないから」
と父に散々言われて育っていたから余計に嬉しかった。わたしにもできたぞ!と。

報告をすると、珍しく父はわたしを「認めて」くれた。

認定証を得てからは、資格手当ということで時給も数百円から1000円ちょっとまであがり、指名料も資格手当として全額歩合としてつくようになった。
正当に稼げることが嬉しくて最高月収50万程になったこともある。

でも、忘れてはいけない。
この仕事が「普通」ではないことを。

なので、わたしは週に1日ずつでも
ドトール や LAWSON でアルバイトもして
当時の高校生時給¥700くらいで働いてもいた。
稼いだお給料の有難みも味わうことにして、どの仕事も一生懸命頑張ってた。とっても楽しかった。毎日が充実した生活になり、初めての彼氏とは別れる決意をした。

今まできちんと働けなかったからこそ
自分を売って生活したくなくて
きちんと働きたかったからこそ
楽しくて やりがいを感じて
社会がやっと、明るく見えた。

実際、アルバイトが楽しいと感じるまではわたしの視界には物事全てが白と黒に見えていて、モノクロの社会で生きてる価値があるのか、と常に自問自答していた。

仕事にやりがいを感じてからは不思議と視界に入るもの全てがフルカラーで見えて楽しく感じて、生きててよかった!たのしい!!と思えたんだ。

こうしてわたしの高校生活はユニークなものになった。

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