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片目ずつで物事を見てみたら
こんにちは。
キャリアコンサルタントの大塚みきです。
今日は世界を片目ずつで見てみたら、実態のないものに悩んでたと気付いたお話をしたいと思います。
コップに半分の水
有名な話ではありますが。
コップに半分の水が入っていた時、あなたならどんな風に捉えますか?
「まだコップに半分も水がある」
「もうコップに半分しか水がない」
前者はポジティブ、後者はネガティブな印象を受けますよね。
状況によって捉え方は変わる
おなかがいっぱいの時は「まだコップに半分も水がある」と感じるかもしれないし、喉がカラカラで他に飲み物がないときは「もうコップに半分しか水がない」と感じるかもしれません。
同じ人でも環境や状況によっては捉え方が変わること、全然あると思います。
でもどちらで捉えたとしても変わらない事実は
「コップに水が半分入っている」
ただそれだけなんですよね。
事実と解釈は別
この話の場合、
事実は「コップに水が半分入っている」ただそれだけで
「もうコップに水が半分しか入ってない」はネガティブな解釈でしかありません。
これ、実は日常でもよくある話で。
たとえば、仕事でミスをしたとき、
私生活や他の仕事がうまくいっているときは
「ミスの原因はコレだから、次から対策して気を付けよう」
と思えることでも
プライベートがうまくいってなかったり、
他の仕事も難航しているときは同じミスでも
「私はなんて仕事ができないやつなんだ」
とネガティブに捉えてしまうなど、その時の状況によってミスに対する捉え方は大きく変わります。
事実は、「仕事でミスをした」ただそれだけで
「私は仕事ができないやつ」は解釈でしかありません。
けれど、カウンセリングでお話をお伺いしていると、ミスだったり成果が出ないことに対して「私は仕事ができないやつ」だと言い、それが事実であると思い込んでしまっている方が多くいらっしゃいます。
厳密にいえば仕事ができるかできないかの明確な基準などはなく、仮にミスによって半期の評定が悪かったとしても、それがあなたを「できないやつ」と決めつける烙印にはなりません。
それでも人は事実よりも「解釈」を優先し、それを事実だと思って悩んでしまうことが多いようです。
事実の目と解釈の目を1つずつ持つ
解釈が悪いわけでは決してありませんが、私たちは人間なので時に行き過ぎた解釈をしてしまうことがあります。
それは人に対しても自分に対してもあることで。
事実と解釈を混同してしまうと、無駄に落ち込んだり、無駄に怒ったり、無駄に感情を揺さぶられてしまうんじゃないかと思います。
ただミスをしただけで、それがあなたを「ダメな人間」たらしめるものではないのに、「ミスをした=自分はダメな人間」だと思い込んで自己評価が下がったり、「きっと周りにもできないやつって思われる」と確かめようもない他者評価にストレスを抱えたり。
ひとつ、ネガティブになるとまた別のことでも「あぁやっぱり私はダメだ」とどんどんネガティブ沼にハマりやすくなってしまったりもします。
だからこそ、片目に解釈が飛び込んできたとしても、もう片目では事実を見つめるようにするのが良いのでは、と自戒を込めて思います。
「ダメな人間」って思ってるのは自分の解釈。
「できないやつって思われる」と思ってるのも自分の解釈。
今日の事実は「ミスをした」ただそれだけだ。
と認識できれば、補填やフォローなどミスに対してしなければならないことを優先して考え、本当に自分がダメな人間かどうかは、いったんおいておけるんじゃないかなと思います。
20代はまだまだ事実と解釈を混同していて、あーでもない、こーでもないと悩んでいましたが
事実と解釈を分けて考えることで、
仕事上でも、対人関係でも、自分自身に対しても、
自分の解釈に振り回されているだけで、意外と実体のないものに悩んでいたな、と気付けることが増えました。
人間だから、事実に対していろんなことを思うのは当然のこと。
それ自体を辞めるのではなくて、もう一つの目で事実を見つめ、なにが事実でなにが解釈かを分けて考えられたら、もやもやぐるぐるする不満や悩みが少しだけ軽くなることもあるんじゃないかなと思います。
誰かに対して、自分に対して、
カッとなったり落ち込んだとき、事実と解釈を分けられてるか点検してみるのも良いかもしれないです。
自戒を込めて。
それでは今日はこの辺で!
Adios!