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[1分小説] からだ
金曜日の18時半を過ぎる頃だった。
駅へ向かう人で混雑する道を、制服姿の香澄は歩いていた。
『綺麗な人だな』
ふいに、勤め人らしき女性が横を通り抜けていった。
自分より10歳くらい上、20代後半といった年齢だろうか。
艶のあるロングヘアーをなびかせて歩く女性の後ろ姿を見て、香澄は思う。
大人っぽいジャケットは、まだ高校生の自分には着こなせない。
ブラウンの長いフレアスカートと細いヒールの靴が、家路を急ぐ人たちの間で妙に華やかに映った。
『あのお姉さん、これから男の人と会うのかな』
服装と軽やかに響くヒール音、そして肩から漂わせる雰囲気から、なんとなく、香澄はそう感じた。
『大切な人なのかな。
そういうこと、するのかな』
・・・。
『やだ、私何考えてるんだろう』
頭が思考を制する一方で、しかし疼いてやまない心が、彼女をその場に立ち止まらせた。
・
「ごめん、別れてほしい」
高校のクラスメイトである瀬川くんからそう告げられたのは、3日前のことだった。
「その、お前、させてくれないじゃん。俺もう限界」
突然のことで、言葉が出なかった。
思い出すだけで、今も胸が押し潰されそうになる。
しかし、後に続く言葉はもっと彼女を驚かせた。
「俺、佐山と、しちゃった」
一瞬、彼の発したことが理解できなかった。
その内容も、それを告げること自体にも。
『…そんなこと、知りたくなかった。
なんで、それを私に言うの?』
同じクラスの佐山美弥子は、香澄の前の席に座る大人しい女子生徒である。
『どうして、佐山さんと瀬川くんが?』
・・・。
間をおいて、消え入りそうな声で香澄は問うた。
「佐山さんと、付き合ってるの?」
「別に。そういうんじゃないけど」
「付き合ってもいないのに、そういうことするの!?」
泣き出しそうな声で言い放つと、脳内処理もできないまま、香澄は逃げるように下駄箱を後にしたのだった。
・
あれ以来、瀬川くんとは話していない。
高校2年に上がって同じクラスになった瀬川に、
香澄は入学時から好意を寄せていた。
5月の連休明けに彼から告白されたときは「一生分の運を使い果たしちゃった」のではないかと思った。
幸せだった。
「ごめんね。うちの親、厳しくて」
交際中の半年間、何度口にしただろう。
付き合うとは言っても、香澄にできるのは一緒に登下校したり、月に一度週末に街へ出かける程度のもので、それ以上の仲にはならなかった。
いや、時おりそんな素振りを見せる瀬川に対して、親密になるのを避けていたのは香澄の方かもしれない。
「定期テストもあるし、高2の夏が大事だって、
先生言ってたから。今はまだ...」
そんな風にやんわり断っていたが、本当は
「いけない気持ち」になるときだって、あった。
でも――
得体の知らない何かへの恐怖が、常に彼女の中で勝っていたのが本音である。
『好きな人と一緒にいたい。
それだけじゃ、だめなのかな』
来年高3になったら受験をして、そのうち大学生になって、そしていつか、自分もこのお姉さんみたいに素敵な女の人になって―。
自分の からだ を、誰かに預けられる日が、
来るのだろうか。
『あ、予備校!』
いつも足早に進むはずの道を、ふと我に返った香澄は急いで駆けだした。
すっかり日が暮れた駅前の雑踏の片隅で、ようやく色づきはじめた街路樹が、彼女の後姿を見守っていた。