涙が出る瞬間は『心に蕾が咲いたとき』だった話
涙が出る瞬間
涙が出る瞬間。それは『絶望を感じた時』と、
だと感じた。
心に小さな蕾が宿った瞬間、涙が溢れた。
小さな蕾をくれたのは
心に小さな蕾を咲かせてくれたのは、
だった。
しばらくの間、絶望を感じていた。その原因も『娘』だった。発達障害に不登校を抱え、何年も私は苦しんでいる。毎朝の癇癪(泣き叫び)、登校渋りと戦い私は疲れてしまった。
私の心は限界を感じて、
生きる理由を見失い、何度も消えてしまいたいと考えていた。
そんな中、今週の娘はいつもと違った。
毎日頑張って学校に行ってくれた。「行きたくない」と言っていた学童にも行って、私を助けてくれた。
その理由は実にシンプルだった。
この信念を原動力に、娘は自分が出来る事を精一杯頑張ってくれた。本当は辛い事いっぱいあると思う。でも、帰り道の彼女は『笑顔』だった。
『大好き』を原動力に頑張れた娘を見て、私は感動した。彼女は『凄い』とも思った。
これに気付いた瞬間、私は涙が溢れた。
死んでいた私の心に、
を注いでくれた。
そして私の心に『小さな蕾』が咲いたように感じた。
彼女は気まぐれな部分もあるから、これ(学校を頑張ること)がいつまで続くかは分からない。
でも、ママが元気になる為に頑張ってくれた"証"は残された。
私の心が死んでいた時、娘は神様に『手紙』を書いていた。
娘は書字障害がありながら、一生懸命書いてくれていた。
恐らく書いた次の日の朝。リビングに手紙が落ちていて、発見した。
改めて、その想いを噛みしめた。
彼女を見習いたい
そんな問いも生まれた。
私は、
を理由にはあまり考えていなかったように感じた。
私は私なりに一生懸命頑張って来た。だけどそれは、
頑張って来たのだと思う。"ために"の中には『好き』という気持ちも含まれていたのだろうけど、どちらかと言うと、
『自立のため』
という意味合いの方が強い様に感じている。
私は"物理的に"、彼女は"精神的に"頑張っていたのかも知れない。
もしかしたら、これがケンカしてしまう原因なのかも知れない。
価値観は『似て非なるもの』
娘とは感覚は似ているように思っていたが、価値観にちょっぴり"ズレ"があったように感じる。
私も娘のように『大好きだから』を原動力にしたいな、と思った。
昨日『大好きだから』を1番に考えていたら、
そう感じた。
娘をギュッと抱きしめたくなった。愛おしさも感じた。
『愛の定義』は分からない。
私は未だに、"愛の感じ方"も"愛の与え方"も分かっていないように思う。
だけど、私は娘から『温かさ』を受け取った。それが『愛の1つ』なんじゃないかなと、そう思った。
分かり合えない部分もいっぱいあるのだけど(笑)。
でも『ふんわりとした温かな光』をくれた娘に「ありがとう」と言いたい。
私の心に"小さな蕾"を咲かせてくれてありがとう。
おわり