抗がん剤をスキップ
父の7回目の抗がん剤は、妊娠の報告をしてから4日後の予定だった。夫は外仕事のとき以外は家に帰ってきて食事を作ったり、私の仕事の日は父のランチに付き添ってくれたりした。カフェRに行くときの父の様子を心配そうに報告してくれた。
「お父さん、ふらつくから杖がいるかも知らんって俺に言うねん。確かに歩く姿を見てても足元がおぼつかない。相当しんどそうやで」
ふらつきは、胃がんが見つかる少し前から訴えがあり、抗がん剤を始めてからも毎日のように「船酔いみたい」と言っていた。が、M先生に相談しても原因はわからないという。抗がん剤の影響とは考えにくい、と。血圧も安定しているため、近所の内科でもらっていた降圧剤をやめて様子を見ていたが、よくなる気配はなく、むしろ父に聞くと「だんだん強くなっている」とのことだった。がんの影響なのだろうか。もし、胃や腹膜だけでなく、がんが脳にも転移しているとしたら…。
以前、杖をつきながら「何でこんな目に遭わなあかんねん」と言っている夢を見たと話していた父。夢が現実になるのだろうか。嫌な夢を見たとあんなに嫌がっていたのに、自ら杖がほしいと言い出すなんて。
抗がん剤7回目の当日も、父は診察室でふらつきが辛いと強く訴えた。あまりにも副作用についての愚痴が多いので、見かねたM先生が「今日は点滴をお休みしましょうか?」と切り出した。休みます、と答える父。じゃあ、次の抗がん剤までゆっくりしてね、と先生。
父は副作用の悩みから一旦解放されると、心なしか嬉しそうに見えたが、私は一気に不安になった。毎日副作用の愚痴をこぼしているが、そこまで気にしなければならないほどひどい状態ではなく、むしろ他の患者さんと比べるとかなりマシなはずなのだ。これから子どもも生まれるのに、父のきまぐれのせいで抗がん剤が打てなくなり、がんが進行してしまったらどうしよう。
今日も待合コーナーで一緒になり「次は点滴やね」と、診察室から出てきた私達に声をかけてくれたTさんに「いや、今日はこのまま帰ることになったんですよ。1回お休みすることになったんです」と伝える。Tさんは、何故?と少し驚いたような顔をしたが、すぐに笑顔になり「そうか、じゃあまた次の診察でね」と言ってくれた。
待合を後にし、病院内の介護用品のお店で杖を買っていく。大丈夫だろうか。休んだ3週間で副作用が少しでも楽になるだろうか。それとも3週間で一気にがんが悪化してしまったりしないだろうか。本当に大丈夫だろうか。
M先生は「前回のCT検査では腎機能も改善してきているし、今後は経口の抗がん剤を使うことも視野に入れたい」と話していた。今までは寿命を出来る限り延ばすことだけを考えていたはずだが、抗がん剤の効き具合が思いの外よかったため、がんを根治させることも考えてくれているのだ。可能性があるなら、私だって、何とかして父にがんばってほしいのに。
残念ながら父の目論見は外れた。抗がん剤を打たなかったから、今回は便秘にはならないだろうと言っていたが、診察の翌日から3日間便が出なくなった。手のしびれもふらつきも、よくなるどころかきつくなっているという。さらに、1週間ほど経つと、食欲が減りげっぷの回数が増えてきた。これはよくない。夫も私も、父本人も自覚していた。
毎日カフェRにランチに行く以外は外へ出歩くことがなかったので、休んでいる間に体を動かす習慣をつけてもらおうと、夫と私で近所の神社まで毎日散歩に行くように勧めた。
「Tさんは、毎朝散歩に行って100メートルダッシュしてるって言うてたやろ。ジムにも通ったりして体鍛えてはるから、抗がん剤してても元気やねんで」
71歳、今まで運動など全くしてこなかった父。Tさんの努力とは雲泥の差だが、神社に散歩に行ってくれるだけでも十分なのだ。「今日はちょっと…」と嫌がる日もあったが、昼はカフェRへ、夕方は神社にと往復20分ほどの距離を歩かせた。結局いつものサボり癖が出て、いつの間にか昼前に神社へお参りした足でそのままカフェRに行くようになり、同じ方向なんだからそれじゃ意味ないやんと夫はツッコミを入れていたが、夏の間もほぼ毎日お参りに行き、自分のがんが治りますように、美紀の赤ちゃんが元気に生まれてきますようにとお祈りしてくれていたようだ。