恩と仇の天秤
親孝行 したいときには 親はなし
そんな有名な言葉があるが、私にもいつか親孝行したくなるときが来るとしたら、それはずいぶん幸せなことだなぁと思うことがある。
もちろんこの言葉の本来意味するところは知っているが、私にとって親とは「いずれ親孝行したいと思っていたのに裏切って去っていった人」であり、「恩と仇のどちらが重いか判断しかねる人」である。
母については先日少し書いた。
この中で父にも少し触れたが、一度は死んだものと割り切ることができた母に比べると、父に対する思いは複雑である。
父が私を愛していることは重々承知している。あんなにも愛情深い人はそういないとも思う。
しかし、父ほど平然と人の傷を抉る人間もまた知らない。
それは私に対してのみでなく、母に対しても、再婚相手である今の細君に対しても同様である。
父に相手を傷付けようという意図がないのも承知している。
父なりに気を遣っていることもわかる。
しかし、凶器を凶器と思わずに振りかざし振り下ろすのが父であり、なおかつこちらが傷付いたことにも気付かないのだ。
たぶん父にも何らかの障害か何かがあるのだろうと思っているが、父の場合、本人はそこに不自由を感じていないようだし、家の外で人間関係を築くのは上手く、大手メーカーでも出世したし、独立してからも仕事はうまくいっていたようである。
ただ、妻子に対してだけ、言って良いことと悪いことの区別がつかないようだ。
父には大学に行かせてもらった恩があるし、経済的援助はこれ以上ないほど受けている。
保証人の名はすべて父だし、父が亡くなれば私には保証人欄にも緊急連絡先の欄にも書く名前がない。
感謝すべきなのだろうと思うと同時に、拭い切れない屈託がある。
いくら悪気がなかろうと、親子であろうと、言ってはいけない言葉というものがある。
父はそれを日常会話の端々で口にしてしまう人間だ。
大学卒業後、私は年々心身症が悪化する傾向にあったが、限界を感じて精神科にかかるようになったのは、父からの過干渉によるストレスが決定打だった。
箸の上げ下ろしに至るまでというたとえがあるが、父の場合はそれが比喩ではなく、日常の何もかもに口を出され、その上で凶器のような言葉をふるわれるので、とても耐えられるものではなかった。
精神科にかかり始めた頃は、不眠に拒食傾向、吐き気、目眩、頭痛や動悸が慢性的にあり、日常生活にも支障をきたしていた。
当時の診断は抑うつ状態というだけで、これといって病名はつかなかったが、数年は父の名前を見るだけで体がぞっと冷たくなる始末だった。
今ではそこまで過剰な反応をすることはなくなったが、父からの手紙は何年分も読まないまま束にしてある。
(大事な用はメールが入るので気付かないということはないが、それも全文を読むまでに数週間を要することも珍しくない)
私にとっては、父とは言葉を交わさないことがお互いのための最良の選択だと思うのだが、父にとってはそうではない。
父からしてみれば、老齢になってなお、自立できぬ反抗期の娘を持っているようなものに違いない。
そんな父を不憫だと思うし、何かしら恩を返すような意思を持てたらと思うのだが、その度に恨む気持ちが蘇ってしまう。
そして、一度は見殺しにされたという気持ちが未だに拭えないのだ。
私が人生で最も追い詰められていたとき、まさに地獄にいるような思いでいた高校時代、耐えかねて公衆電話から父に電話をかけて訴えたことがあった。
どうか実家を出るのを助けてほしい、どこかのアパートか何かで生活させてほしいと訴えたと思う。
当時、実家では祖父母と母、それに私の四人で暮らしていたが、その暮らしは私にとって針の筵だった。
祖父に何度なじられ、出て行けと言われたか知れない。
本当に出て行こうにも、越してきたばかりの土地で頼る人もおらず、高校生の身ではどうしようもなかった。
しかし父は事態をそれほど深刻には考えなかったようだ。
じいちゃんもまさか本気で孫を憎んでいるわけがない、もうしばらく辛抱しろと、そんなことを言ってなだめられるに留まった。
日記も何もないので、どれほど、あるいは何度食い下がったかは記憶が曖昧である。
しかし、それは私にとっては最後のSOSのつもりだった。
その後私が表面上は何事もなく生き延びたのは、先日の記事で少し触れたが、「生きて小説を書きたい」という意志がかろうじて憎しみと絶望に勝ったためである。
私は毎日のように一家心中する方法を考えていたし、当時はそのことに対して恐ろしいという感情は一切なかった。
祖母に対する哀れみはあったが、それ以上に腕力で勝ち目のない祖父をどうすれば道連れにできるかと悩んでいた。
だから、私は今でも、子や孫が親や祖父母を殺したというニュースを聞いても驚かない。自分もそうなっていたかもしれないからだ。
私がそんなことを画策していたとは、家族や親戚は知るよしもない。
当時の友人達も高校の教師も知らぬことである。
言えば、絶対に止められるに決まっていたのだから、言うはずがなかった。
私は本当に実行するつもりで考えていたのだ。
それももう二十年ばかり昔の話である。
今さら蒸し返してもしようがないし、父は実際私の置かれていた状況を知る手段がなかったのだから、常識的な対応をしたに過ぎないとわかっている。
それでも私は未だに、見捨てられたという気持ちを断ち切れずにいるし、父からいくら経済的援助を受けても、あのときの私の命の値段を思えば相応なのではないかという考えが頭をよぎるのだ。