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「芸術」をめぐる誤解と「高校生らしい写真」

さて、「芸術」という単語を聞いたとき、どんな印象が浮かぶでしょうか?

ひょっとして、音楽で言えばクラシックを、絵画で言えばモナリザとかのちょっと古め(?)でメジャーな作品を思い浮かべたりしませんでしたか?ここでメタリカとかバンクシーとかを思い浮かべた方は少ないのでは?(ひょっとすると「アート」とは?と聞かれていたらそう答えたという方は相当数いらっしゃるかもしれませんが)

いずれにしろ、いうまでもありませんがそれぞれお好きなものをお好きなように楽しめばよろしいわけです。どれが高尚だとか低俗だとか、あるいはどれがエラいとかエラくないとか決める必要もまったくないわけで。もちろん誰かが「名作」と決めたものを好きにならなくちゃいけないということもありません。ところが、世の中には時々そういうことを決めたくて仕方ない人がいて、辟易してしまいます。なぜなんでしょう?

おそらく、一因としては学校教育の影響もあるでしょう。学校で教えられていることは、断言すれば国家がその統治思想に合致している(=「正しい」)と認定した物事に他なりません。

音楽、美術などももちろん同じで、例えばナチスの「退廃芸術」弾圧はその極端な例です。まあ、そこまでは行かなくても学校の芸術教育はモーツァルトやダ・ヴィンチこそが「正解」で、他はダメ・・・とは言ってませんが、まあ要するにそう受け取られるようなニュアンスに満ちているわけです。

一例を挙げれば、私は中学生時代、放送委員として昼休みの放送を担当していました。選曲は任されていたのですが一つだけ「ロックは禁止」(笑)というルールがありました。で、ある日の放送で私はYMOをかけたわけです(「パブリック・プレッシャー」だったかな?)。すると音楽の先生が血相を変えて放送室に駆け込んできました。そのときの会話。

先生「これロック(じゃないの?禁止だよ)?」

私「ちがいます。YMOです」

先生は予想外の答えだったのか反応できず。無事最後まで放送できました。まったくかみ合っていない禅問答のようなやりとりで今となっては笑うしかありませんが、いずれにしろ先生たちがいかに「望ましい音楽」だけ聞かせることに躍起になっていたかがよくわかります。こうした傾向は美術や写真など他の芸術分野にも言えることで、それが「高校生らしい写真」とかいう、ステレオタイプな評価軸を生み出す母体になっていると思うわけです。

高校生ならこういう写真を撮るべきだろう。あるいは、こういう写真は高校生らしくないからダメだ、とか。同業者として、そういう単一の評価軸に寄りかかっていれば「安全・安心」なのだろうなという「大人の事情」は理解しますが、共感はできません。残念ながら、高校写真部顧問の先生はそこで止まっている方が多いかなあというのが実感です。なんとなくそれを感じ取った部員(生徒)も自ら「高校生らしい写真」に迎合するというか自主規制する場合が多いようにも思います。

もちろん、「もっと大人っぽい写真を撮れ」とか「公序良俗に反することも辞さずして挑戦しろ」などと「指導」するというのも少し短絡的すぎると思います。生徒がステレオタイプな「高校生らしい写真」が好きならばそれはそれで尊重すべきなのですから。

大切なのは、生徒自身が「自分の写真」を自分で見つけるためのヒントを与えること。そして、「芸術」ではジャンルや順位、「名作」かどうかは本質的な問題ではないということ。

写真部顧問としては、そこをこそ教えてあげたいな、と思う次第です。








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