どこでどんな写真を撮るか
「そんなの自由でいいじゃん」・・・。ごもっとも。が、なぜこんな命題を立てたのかについて、少し書かせてください。
よく「○○撮影の名所」といわれる場所がありますよね。よく写真雑誌でも特集されていますが、「この季節、この時間にここに行けば(必ず)こういう写真が撮れる」という感じの。桜、富士山、紅葉、カワセミ・・・枚挙にいとまがありません。で、現地で何が起こるかというと、「ダイヤモンド富士を撮るために田貫湖の湖畔に三脚がずらりと並ぶ」などということになるわけです。
もちろん、誰がどこで何を撮ろうと自由ですし、「ああいう写真を自分でも撮りたい=あの風景を自分だけのものにしたい」という気持ちも理解できます。でも、単純に自分はあの三脚の列に加わりたくない、というだけです。そこでそれなりの写真が撮れたとしても、隣の人と同じような写真が撮れたとしても、私はあまり嬉しくないのです。少なくとも意識の上では、誰も気づかないような自分だけの場所とタイミングや表現方法で写真が撮りたい。自分らしいオリジナルな写真が撮りたい。そういう感覚です。
とはいうものの、なまじ多くの写真を見ているだけに無意識に影響を受けて、結果的に誰かの写真に似てしまう、ということはあるでしょう。その意味では、私が顧問をしている高校写真部の生徒たちは誰かの影響を受けるほど多くの写真を見ていないためにかえって自由だったりしますので、写真とはわからないものです(苦笑)。
それはさておき。とある高校写真部の全国大会のプレゼンで、印象的なシーンがありました。大会の常連校の作品に対して、ある審査員の写真家が大意こんな風に評していました。
「さすが○○高校ですね。フレーミングも光の使い方も上手だし、技術的には申し分ないです。ただ、あまりにも『○○らしさ』という学校の伝統というか作風に縛られているような気がします。もっと『自分らしさ』を出して自由に撮ってもいいんじゃないですか?」
適切なたとえかどうかはわかりませんが、音楽で言えば、音程も正確で声量もあってリズム感もよくて・・・という一見完璧に思える歌が必ずしも聴く人の心を動かすとは限らない、という感じでしょうか。
もちろん、技術の高さは正当に評価されるべきだと思います。が、技術を超えた力がある写真というのも確かに存在すると思いますし、私が部員たちに期待しているのは、正にそういう写真なのです。