「写真がわかっている」とはどういうことか
昨年、公募型写真展「御苗場」に出展した際、主宰のテラウチマサトさんから「写真というものがどういうものなのかよく理解されているなと思いました」との寸評をいただきました。
また、以前ある他校の写真部顧問の先生方とお話しした際に、話の流れで別の顧問の先生のお名前が出ました。すると、相手の先生は「ああ、あの先生は写真がわかってますからね」。・・・え?
「写真を理解している(わかっている)」ってどういうことなんだろう?
自分の理解の範囲では、写真とは芸術的表現行為の1つであって、その人の内面や見たもの、出会った光景を形にして残し、作品として「誰か(自分自身も含む)に見せてナンボ」のもの。で、見せる以上は「伝わる」ように工夫すべきものであること。そんなところでしょうか。いや、そんなに簡単に答えが出せる問いでないのは十分わかっているのですが。
以前「イマドキの高校写真部」の中でも書いたように、原則としてすべての高校写真部顧問は独学で写真を学んだ素人です。しかも「写真を教える」というトレーニングを積んだわけでもありません。(そもそも写真は教えられないんじゃないか?という話はいったん置いておきます)で、何が起こるかというと、独学による自分の知識と経験の範囲(だけ)で生徒の写真にアレコレ言う→その写真がたまたまコンテスト入選などの「結果」を残す→「ああ、やっぱりオレの指導でよかったんじゃん」という「成功体験」が残るというわけです。
しかし、この「成功体験」というのは実にやっかいです。そもそも写真にとって「成功」とは具体的にどういうことなのでしょうか。コンテストで落選した写真、あるいは応募すらしない(できない?)写真は「失敗」なんでしょうか?仮に「成功」だとしても、何をどうしたから「成功」したのか客観的に分析しないと意味がないのでは。それに、その「成功」って、あくまで顧問にとっての「成功」であって、生徒にとっての「成功」とは限らないんじゃないでしょうか?
生徒がセンセイの考える範囲の「高校生らしい写真」さえ撮ってれば、それで満足ですか?
前任校で「写真甲子園」の選手だったある教え子から聞いた話ですが、大学時代に写真サークルに入って、公園で撮影会をする機会があったと。で、一人で楽しく撮影しているとある先輩が寄ってきて「その被写体はその撮り方じゃだめだよ。これこれのレンズでこういう設定で、この角度からこう撮らなくちゃだめだよ」。彼女はえらく憤慨して「言われた通りに撮ってたら私の写真じゃなくなるじゃん!」。
いや、気持ちはよーくわかります。どの世界にも、頼みもしないのに寄ってきて長々と講釈を垂れる「教え魔」はいるものですよね。っていうか、私にも大いに心当たりがあります(苦笑)。自分にとって最適なメソッドが他の人にも最適であるとは限らない(=「正解」はない)のに、ついついそうだと錯覚してしまう。高校写真部顧問についていえば、そうすることで結局は部員を「顧問の色」に染めているに過ぎないのではないか、と思ったりもするわけです。つまり「顧問の好みに一致する(お眼鏡にかなう)写真=いい写真」になってしまうわけです。それでは個性の尊重もへったくれもありません。
それに、経験上言わせていただければ、顧問に「イマイチだねえ」なんて言われながら応募した作品が入賞したり、逆に「これはいいぞ!」なんて絶賛した写真が落選したり、なんてことはフツーにあるわけでして。そのことを悟ってからは「審査員は私じゃないからね。あくまで顧問個人の意見だからね。出したかったら顧問がなんと言おうと出しなさい」と言うようになりましたが。
立木義浩先生は「写真甲子園2008」の審査後にこう述べられていました。
「20世紀の遺産として続いてきた写真が、そのまま受け継がれてるわけじゃないのよ。どういう写真がいいのかっていうのが、混沌としてわからない時代。(今は)写真が変わっていく最中なんだよ」
13年前のお言葉ですが、今にもそのまま当てはまると、私は思います。どんな写真が「いい写真」かの定義や解釈は本当に人それぞれですし、時代や国・地域によっても変わるでしょう。いや、別に「高校写真部顧問たるもの、常に写真界の最新の動向に注意を払い、トレンドを追うべし!」などと言いたいのではなくて、せめて「オレ流」の「いい写真」の定義にとらわれない柔軟さというか、常に自分をアップデートしてその幅を広げる努力ぐらいはしたいものです。
そう考えれば、おそらく「写真がわかっている」とは「生徒に賞を取らせる指導法を知っている」などということではなくて、「写真に正解はない」(=撮る人の数だけ正解がある)ということ、そして「写真とは何かを見る人に伝える表現行為であること」が腑に落ちている、と言うことなのかもしれませんね。