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「学校」の枠にとらわれない「写真部」へ(3)

今回はあまり具体的な話にならないかもしれませんが、ご容赦ください。

さて。私は、写真部のみならず、現在の学校部活動のあり方に対しては愛憎半ばする複雑な感情を抱いています。全肯定も、全否定もできません。が、最近はどちらかと言えばその不自由さがより気になるようになりました。

「高校生が写真を楽しむ」という単純なことなのに、そこに「学校」とか「教員」とか「教育」とかというファクターが入るだけでいかに不自由になってしまうことか。

いや、私だって教員ですから、その辺の「大人の事情」はよーーーくわかっておりますよ。人それぞれの立場や責任を無視すべきではないですし。

でも、大人が何でもかんでも先回りして安全な道ばかりを歩かせてさえいれば、高校生たちは成長できるんでしょうか?もちろん、避けられる危険は避けるべきかもしれません。でも、事実上、危険がゼロの道などないのではありませんか?それなら、危険に遭遇したときどう対処するか、そのノウハウも含めて教えるべきではないのでしょうか?

私は、高校生たちには写真が「うまくなってほしい」というより「好きになってほしい」という気持ちの方が強いです。「写真を」教えるというより、「写真で」何かを教えたいのです。

上記のような不自由さを感じるにつけ、その場所として、「学校」の「写真部」が唯一の解答ではないのではないか、と今さらながら感じるのです。そう考える先生方や生徒たち、いわば「同志」は必ず存在する。それもまた、私の確信の一つなのです。

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