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文系、理系という区別が無くならない理由

こんにちは、おがくずにゃんこです。


日本にいると、よく「私は文系ですから」、「私は理系ですから」という会話を耳にします。

私はこの文理の区別について非常にナンセンスだと思っているのですが、日本という国において、これは非常に便利な「免罪符」として効いていると思うので、どういう現象が起こっているのか、言語化したいと思います。


文系/理系だから○○できなくても許してほしい

「私文系出身なので、数学の話よくわかんないです〜」

こういった会話には、「私に求められていることは数学じゃないから、できなくても許してほしい」という含意があると思います。
この現象は逆も同様です。

「私は理系出身なので、歴史の話はちょっと苦手で…」

このように話すことで周囲の人は、「この人は歴史について話してもわかんないか、仕方ない」と思うようになります。

逆に何かができなかったとき、「あいつは文系なのに○○もできない」と罵られ、「あいつは理系だから○○できないのは仕方ない」と諦められる、という状況もよくあります。


こういった会話の背景には、何があるのか。

和を以て貴しとなすこの国では、文理の区別が一種免罪符のような役割を果たしているように思います。

これは足の引っ張りあいとは少し異なり、集団生活を営む際の同調圧力によって、集団から嫌われないための免罪符が必要であり、「文理」という二項対立が非常に便利なため広く普及しているのでしょう。

さらに、自分はここまでできるというボーダーを簡単に引くことで、相手への期待値コントロールとしても非常に便利に使えます。

もし文理というわかりやすい免罪符がなければ、何かできないことがあったときに、「あいつは文理両方できるはずなのに○○できない」という評価となり、それはつまり「変人」扱いされることになります。それを回避するには、たとえ文理という区別にナンセンスさを感じていても、どちらかを演じる必要があるのです。


そして、演じるのであればどちらの役割が良いか。

これもわりと明確で、集団生活を円滑に営むのであればコミュニケーション能力は合ったほうが良く、文系を選択し、理系を切り捨てる場合のほうが多いのではないでしょうか。

いくら理系の学部を増やしても、理系の待遇を良くしたとしても、この日本社会の「空気感」が変わらない限り、特に女性の多数は依然として文系を選ぶことになるでしょう。


でもやっぱりナンセンスだから両方学ぼう

文理のどちらかを演じざるを得ないという社会的な「空気感」があるにしても、やっぱりどちらかを選ぶというのはナンセンスです。同調圧力をかけ続ける集団に未来はありません。

個人的には変人で良いじゃないか!変人最高!と思うのですが、やはり社会全体の空気感を変えるには文理の両方を極めた、アイコン的存在が必要だと思います。


ちなみに文理の区別がない大学というのも、増えてきています。

大きく2種類あり、一つは「リベラルアーツ」型です。日本語では「教養」と訳され、古くは自由に生きるための手法とされた学問です。もし気になる方は、「リベラルアーツ」(ただし両学長は除く)で検索すると、色々出てきます。代表的な大学には東京大学(1、2年は全員教養学部)、国際基督教大学があります。

もう一つは文理融合型です。文理問わず色々な研究室が融合してできた学部で、分野を横断して幅広い授業を選ぶことができます。代表的な大学としては大阪大学人間科学部、慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス (SFC) 、早稲田大学人間科学部があります。

ただし注意点として、漠然と学ぶだけでは広く浅い知識が身につくだけで終わってしまうので、自分が興味のある分野を見つけ、他者との差別化ポイントを見極めることが重要です。


誰からも文句が言われないほどの、強い文理融合スキルがほしい――
そう思いながら、私はもうしばらく演じ続けることになりそうです。


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