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障害のスペクトラムって何? 連載コラム:障害についての対話会②

こんにちは、おがくずにゃんこです。

本記事は障害についての連載コラムその②です。前回に引き続き対象者と前提は以下の通りです。

  • 対象者:障害についてよく知らない、これから学びたい人

  • 得られる知識:障害について最低限の前提と、学びを深めるためのコンテンツ

第1回:

第3回:

前回に引き続き、3人の登場人物による対話という設定で解説します。

アオト:大学生。大学はほとんどサボり、古本屋でのバイトと麻雀に明け暮れる日々。一応福祉系の大学のため、将来はそっち方面に進もうと漠然と考えている
アカネ:大学生。教育学部に所属していて、先週特別支援学校での体験授業を行った
ゲン博士:バイオテクノロジー系の企業で働く研究者。先日、会社のダイバーシティ推進室への異動が決まった

ゲン博士:まず前回の話をまとめると、これまでの歴史で人間は不平等をなんとか是正しようと努力してきた。数多くの犠牲と失敗もあったが、結果的には障害者を含めて包摂する社会のほうが、歴史的にもうまくいってきた。そして現代では障害のある人・ない人という区別はどんどんなくなってきたが、近頃は逆に障害者に対しての風当たりも強くなってきてしまった。その背景には社会全体での余裕の無さがあるのではないかという話じゃったが、引き続き支援する側・される側という区別なく、隣人と接するように、必要なときに必要な支援を受けられる社会を目指していくのが望ましい姿ということじゃったな。

アオト:まとめきれないほど色々話したけど、その通りだね。パート1だけでも相当なボリュームだったよ。

アカネ:すでに障害者を差別してはいけない理由や、障害者との接し方についてある程度の見解は述べられたように思うんですけど、さらにどういった話をするんですか?

ゲン博士:うむ。ここからは「支援」について説明するときに語れなかった、障害のグラデーションについて話そうと思う。まずは障害について語るときに必ずと行って良いほど登場する、眼鏡の話じゃな。ワシも眼鏡をかけておるが、眼鏡が無い時代、視力が弱い人間は障害者だったんじゃ。

アカネ:その話なら知っています。もし眼鏡がこの世界に無かったら、視力が良くない人は遠くのものが見えなくて、車の運転もできないし、障害者になってしまうかもしれない。だけど眼鏡をかければ視力が良い人と同じように見ることができるようになるから、障害者ではないって話ですよね。

ゲン博士:その通りじゃ。では次の話として、色覚異常の場合はどうかの。

アオト:色覚異常って何だっけ?

ゲン博士:色覚異常は、かつて色弱や色盲と呼ばれた疾患じゃな。色についての感覚が通常とは異なっており、多くの場合は赤色や緑色の区別がつきにくい症状じゃ。そもそも見え方に個人差があるというのは、もっと知られた方が良い事柄じゃな。視力と同じように、色の感度は人によって違うのじゃ。同じリンゴを見つめていたとしても、ワシとアオトくん、アカネくんでは見え方が違うかもしれんのじゃ。

アオト:確かに視力と同じように、見え方に違いがあるとしても不思議じゃないよね。画家のゴッホは特別視界が黄色っぽく見えたから、ああいう色彩のひまわりをたくさん描いたのかな。

ゲン博士:そうかもしれんの。さらに色覚異常は特定の色の区別がつかないことで、色分けしていたものが同じ色に見えてしまうという弊害が常に生じておる。残念なことに眼鏡のように、かければ改善するというものも現状はないのじゃ。

アオト:違う色のものが同じ色に見えてしまうって想像しにくいけど、講義とか資料を見るときとか、困る場面は日常的にたくさんありそうだね。

ゲン博士:そうなのじゃ。そしてやっかいなことに、このような症状は「色覚異常」と一括りにされておるが、人によって個人差が大きいのじゃ。このような障害は特に精神疾患で多く、人によって症状が異なるために、どのように配慮すれば良いのか?についても一概に定まらないことが多いのじゃ。また軽症の人は日常生活に支障を感じないことも厄介で、似た症状で重症の人の状況を軽視してしまうという問題もあるのじゃ。

アカネ:それが博士の言う「グラデーションの問題」だったんですね。様々な障害が存在するだけでも多様なのに、それらの症状の重さも人によって違う。障害の種類だけでなく、障害の重症度によっても対応は異なってくるし、自分が当事者だからといって他の人の気持ちが分かるとも安易に言えないってことですね。

ゲン博士:鋭いのお。その通りで、わかりやすいところでは車椅子に乗っている人に対して、自分は車椅子の介助経験があると言って、同じような支援が的確とは限らんのじゃ。自力で段差を乗り越えられるような人もいれば、常に人の介助が必要な人もいる。このような多様性を認識しておくことが重要なのじゃ。

アオト:それって、このケースでこの状態ならこうする、みたいに全パターンを知っておくみたいな学び方だとキリがないよね。そういうふうにしてると知らないパターンで何もしない、何も知らないから何もしないのが最適解、ってことになっちゃうけどそんなことはなくて、支援が必要な人に手を差し伸べることが当たり前の雰囲気のほうが絶対生きやすいはずだし。だから慎重な支援が必要な医者などの専門家が関わる場合を除いて、失敗しても良いから手を差し伸べる、そういう姿勢が大事だよね。

ゲン博士:うむ。今は厳しい時代じゃからこそ、助け合いが必要だとワシも思うのじゃ。誰もが自分のことで精一杯になっておると、周囲に協力する余裕というのは無くなってくるのかもしれん。じゃが「沈黙が金」という生きづらい雰囲気を作るのは一人ひとりの態度なのじゃ。それを変えるのは難しいが、自分を変えることは誰にでもできる小さな一歩なのじゃ。

アカネ:難しそうだけど、まずは手を差し伸べる。そんな人間になることを心がけたいですね。

ゲン博士:殊勝な心がけじゃ。今回はまずイメージしやすいということで身体障害を例に上げたが、精神障害についても代表なところを説明するぞい。今さらながら障害についてじゃが、身体障害、精神障害、知的障害の3つに主に分類されるのじゃ。その他病気によって日常生活に支障を来す場合も障害がある状態といえるの。

https://www.mhlw.go.jp/shingi/2008/10/dl/s1031-10e_0001.pdf

アオト:精神面の障害は見た目じゃわからないこともあるし、理解しておくことがより大事だね。

ゲン博士:うむ。それでは精神障害について代表的なところじゃが、自閉症スペクトラム性(ASD)というのは名前にスペクトラムとあるように、連続性を念頭に置いた障害になっておる。これは先天性の障害で、「自閉傾向」があることで強いこだわりを持つのが特徴じゃ。じゃがこだわりが何なのかというところはかなり人によって異なっており、時間にこだわる人もいれば、色にこだわりを持つ人もおる。また通常の会話が問題ない人もいれば、言葉を交わすことが難しい人もおる。

アオト:名前にスペクトラムがついてると、もう分類を諦めたって感じも伝わってくるね。

ゲン博士:確かに医学では症状を特定し、その原因を分析し、対処するという考えが強いために名前をつけるというのが昔から行われてきた。じゃがその思想の転換も少しずつ図られておるわけじゃの。まとめに入るが、今回の話でもう一つ気をつけたいのは、自分が当事者だから、自分の身内に◯◯な人がいるから、という理由で特定の疾患のイメージを固定しないことじゃ。多くの疾患の症状はグラデーションがあるわけじゃから、その程度によって状態は異なる。目の前の人の状態を、対話などを通して個別に理解し続けることが重要なのじゃ。そしてこれは広く人間理解全般についていえることじゃの。人体や文化、心理用語についてどれだけ知識があろうとも、目の前の人間について理解しようという姿勢がなければ理解することはできんのじゃ。

アオト:さすがは博識の博士だね。よく学生同士でも「自分はコミュ障だから」って言ったり、「陰キャ・陽キャ」ってカテゴライズするけど、障害のカテゴライズも一般人からしたらそれくらいのノリで分類しちゃうと思うんだよね。だけど「こいつはコミュ障言ってるけどよくしゃべるな」とか、「陰キャ集団って言ってるけど楽しそうだよね」とか、詳しく知るにつれてカテゴリにとらわれない特徴を理解していくんだよね。障害についてもそれと同じかなと思った。

ゲン博士:たまにはアオトも良いことを言うのお。障害以外にも様々なことをカテゴライズするのが好きというのは、日本人の特性といえるかもしれんの。ときにはそれが理解促進につながることもあるが、弊害としてカテゴリ以外の存在に対して排他的になる側面があるのも事実じゃ。それが「臭いものに蓋をする」精神に繋がってしまうこともあり、事実日本人の障害者に対する意識というのはずっと排他的じゃった。最近では改善されてきたように見えたが、割りを食う感覚が強くなってきたのか狭いカテゴリに各々が閉じこもりがちになってきたようにも思える。世の中には「信じる者は救われる」という言葉もあるが、小さな世界しか知らんというのは本当に良いことなのか?フィルターバブルの外側を見たほうが良いのではないか?ということを感じるのお。

アカネ:そもそも自分の理解を超えたものに対して、自分は耐性がないとか怖いからということで、知っている世界に閉じこもるのが生きやすいというのも理解できるんです。だけどそれでは袋小路に陥ってしまって長期的に見ると生きづらいと個人的に思いますし、居心地が良い空間だけにいると逆に不安になるのが正常なのかなとも思います。

ゲン博士:まとめる話でもないが、個人の世界認識の違いが結局は判断を分けておるのじゃろうな。簡単に分けるなら世界を敵と見るか、味方と見るか。その違いが行動の違いを生んでおるのじゃ。じゃが世界というのはそう簡単に割り切れるものでもない。そんな世界でどう生きるのかが、問われておるわけじゃの。


③へ続く――


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