人間は疑うことなどできず、印象的なストーリーでのみ価値判断する

こんにちは、おがくずにゃんこです。

最近メディアを賑わしている兵庫県斎藤知事の再選に関する件ですが、未だに話題の供給が耐えること無く様々なニュースが出ています。

「新聞やTVのような古いメディアの敗北であり、SNSの勝利だ!」
「私達は隠された真実に気づいたんだ!」

というような言説が見られますが、SNSには真実があるのでしょうか?


それは頭の中お花畑すぎるということで、兵庫の件に限らず、世の中を理解するということについて個人的な考えをここで整理したいと思います。

それは、人間は疑うことなどできず、印象的なストーリーに基づく価値判断しかできないということです。


メディアリテラシーは100年前から変わらない

そもそもメディアリテラシーは100年前から進歩していません。アメリカで広報の父と呼ばれるエドワード・L・バーネイズは、1928年の著書で次のように述べています。

エドワード・L・バーネイズ(1891-1995)

The conscious and intelligent manipulation of the organized habits and opinions of the masses is an important element in democratic society. Those who manipulate this unseen mechanism of society constitute an invisible government which is the true ruling power of our country.

要約すると、「大衆の組織化された習慣や意見を意識的かつ知的に操作することは、民主主義社会における重要な要素である。この見えざる仕組みを操作する者たちは、真の支配力を持つ『見えざる政府』を構成している」という意味です。

つまり大衆の意見などというものは、常に誰かから操作されているということです。それが新聞やTVから、SNSに変わっただけです。

現に斎藤知事の選挙についても、SNSで応援アカウントを作ったりハッシュタグを作ったり、印象操作とも取れる広報を戦略的に行っていたことが(悪びれもなく)公開されています。


ニューメディアに惑わされないようになるのは難しい

こういった状況について、何十年も前から「メディアリテラシーを身に着け、何が真実で何が間違っているか見極められるようになろう!」という教育が行われています。

しかし悲しいことに、「メディアリテラシーを身につける方法」について適切に教えられる国語教師や専門家は少ないです。この四半世紀、大衆のリテラシーは上がったでしょうか?TVにせよSNSにせよ、人間は目の前にあるコンテンツの真偽すらまともにできないことを受け入れたうえで、どうすればより良い社会にできるのか考えるべきです。

特に高齢世代はTVや新聞に慣れ親しんでいたせいか、SNSの情報を真新しく新鮮なものに感じているようです。しかしそもそもメディアに真実は存在せず、盲信する先がオールドメディアからニューメディアに変わっただけです。


ニューメディアに溢れる情報に惑わされないために、メディア・リテラシーとしてよく言われるのは、次の3ポイントではないでしょうか。

  • 複数の情報源から複合的に情報を得ること

  • 情報源を確認すること

  • 常に疑問を持ちながら情報に接すること

しかしこれがSNS時代には無理なのです。まず「情報を複合的に得ること」ですが、情報量が多すぎて個人が目にすることができるのはごく一部になります。するとSNSのフィルターバブルによって「興味のある情報」やそれに関連する情報のみを見続けることになり、偏った意見が強化される仕組みが構築されてしまっています。

次に「情報源を確認すること」ですが、SNSでそれを真面目に取り組んでいる人がいるでしょうか。Xに搭載されたコミュニティノート機能は一定の成果を挙げていますが、すべてのコンテンツをバズる前に有識者がチェックすることは不可能です。

最後に「常に疑問を持ちながら情報に接すること」ですが、これが最も訓練を必要とする営みです。基本的に疑い続けることはそれだけで心理負担が高く、大量の情報を捌くSNSとは対局に位置する行動です。特にこれまでTVが垂れ流す情報を一方的に接種していた人々にとって、このような行動は困難です。


複数のストーリーを自分の中に持つということ

このような事情から、私はメディアリテラシーは確かに大事だけれども、より短期的に対処療法的な観点で、情報に接するときの心構えがあると思っています。

それは端的に言うと、複数のストーリーを自分の中に持っておくことです。

わかりやすい例でいうと、鬼滅の刃でしょうか。

鬼滅の刃がヒットした理由の一つに、現代では珍しい敵と味方がはっきりしている構造があるのではないかと思います。

「鬼は無慈悲に人を◯す化け物だから、退治しなければならない」というロジックはわかりやすく観る人々を惹きつけます。ところが鬼が追い詰められると、鬼側の回想シーンが挟まります。これがまた人々の心を揺さぶり、何ともいえない葛藤を芽生えさせたのではないでしょうか。

私の推しキャラは猗窩座なのですが、鬼殺隊側から見れば煉獄さんを倒した悪役です。しかし彼の回想シーンでは、人間時代に育ての親と許嫁が無惨に殺されてしまうという切ない過去がありました。

このように「主人公側の鬼を滅しなければならないストーリー」と「敵が鬼として闇落ちしてしまったストーリー」の2つを理解することで感情移入が入り乱れ、「感動」という現象に繋がったのではないでしょうか。

そもそも人は感情移入に弱いです。「子どもが可哀想だ!」、「虐げられている人々がいる」、そういった観点にハイライトされると、途端に価値観まで揺さぶられてしまいます。ただ、特に戦争などは、両陣営で等しくそのような光景が見られるはずなのに、報道によってどちらか一方に同情してしまいがちです。

「勝ったほうが正義」という言葉もあります。戦争の正当性を含め、ほとんどの出来事というのは「勝った側」の論理でストーリーが出来上がり、その中でヒーローとヴィランが生まれます。

翻って日常のニュースにおいても、わかりにくい形でヒーローとヴィランが存在するのではないでしょうか。このわかりにくさが問題で、少し考えて理解できた事柄というのはより強く印象に残ります。だからこそ、複数のストーリーを入れ込み、個人の中で矛盾を作ることが重要です。どちらか一方だけが悪くて、どちらか一方が正義ということは無いのです。


真実など存在しない

先程はヒーロー、ヴィランという立ち位置に関する話でしたが、もう一つ強固な観念として「真実」があります。

「本当は◯◯」であったり「隠された真実」みたいな言い方をされると、人間は弱いです。怪しさが少しでもあれば「陰謀論」として半分冗談として受け止められる人が大半だと思いますが、侮ってはいけません。

人類は、ニーチェ先生の名言を意識することから始めるべきだと思います。

フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)

事実というものは存在しない。存在するのは解釈だけである。

これを言い出すと、何が正しくて何が間違っているのかわからない、どうすればいいのかだけを端的に教えてくれ。ということになりがちです。


ここでの私のアドバイスは身も蓋もないですが、「自分が信じたいものを信じれば良い」です。信じるものは救われるのです。

ワクチンは危険だと信じているのなら、信じ続ければいい。オーガニックだけが安全だと信じているのなら、それを信じ続ければいい。

ただし同様に、医学が安全だと信じているのなら、信じ続ければいい。純文学のみが素晴らしいと信じているのなら、信じ続ければいい。生成AIが社会を変えると信じているのなら、信じ続ければいいのです。科学的なことは絶対正しいであるとか、陰謀論は絶対に間違っているということも決して無いのです。(そもそも科学自体、諸説あるけど今のところ◯◯という考えが多数派、という知見の集合体です)

人間は自分の周囲10人の平均的価値観になると言いますが、その通りだと思います。「周囲」にはインターネットによる繋がりも含まれますが、あなたは10人に誰を選択するか?が問題なのです。大丈夫、マトモになりたいとは誰しも思っているので、硬直化しているオールドメディアも、阿鼻叫喚のSNSも、落ち着けるところはあるはずです。




もしひょんなことでこの記事を最後まで読まれたのなら、私と似たような考えをお持ちなのかなと思います。一緒に一億総SNS社会の行く末を見守りましょう!


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