【オヤジの親父】
オヤジ方の爺ちゃん。
オヤジが27歳の時に亡くなった。
オヤジはのちに俺のお袋になる婚約者と一緒に群馬の実家に戻ったものの
看取ることは出来なかった。 お袋は葬式で初めて義理の父との対面となった。
因みに二人は翌年籍を入れる。
当時母ちゃん20歳。
披露宴は千葉駅ビルの催事場。
オレが知る爺ちゃんの写真は一枚。
間違いなくオレと血がつながっていると断言できるゴリラ顔だ。
実家は群馬の田舎の田舎。
第二次世界大戦中にはとても貧しく疎開していなかったオヤジたちは食べるものに困り、当時の話を聞くとオヤジはいつも腹が減っていたと語る。
当時、爺ちゃん他、近隣住民は農業に携わり、主に蒟蒻芋を栽培していた。
各々の家で畑を持ち、採れた蒟蒻芋を各々売って生計を立て、蒟蒻芋と米を交換する事が日常生活の当たり前の日々が続く。
それでは効率も悪く、価格交渉も不利だと気づいた爺ちゃんは、皆をまとめ団体で蒟蒻芋を卸し始めた先駆者だったそうだ。
それでもオヤジはかあちゃん(オレの婆ちゃん)に腹が減った腹が減ったと訴える日々。
婆ちゃんは、
「起きているから腹が減るんだ。 さっさと寝ちまいな!」と。
子供9人。
生活は相当厳しかったのだろう。
現金収入があった時のご馳走は鳥団子。
いぇーい!!
但し少しだけ肉のついた軟骨を叩き砕いた骨団子。
我が家では食卓に鶏肉が出た記憶がない。
理由はなんだったのかな?
オレは子供の頃、好き嫌いが激しかった。
特にカレーライスに入っているニンジンは強敵だった。
小学校高学年になると運動量も増えとにかく量だ!と言わんばかりに何でも食るようになっていた。
ニンジンも含めて…
ふと思い出したオヤジの幼少期とオレの幼少期。
オレが食べ物を残すと、オヤジがオレを厳しく叱ったのも良く分かる。
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