![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/162919518/rectangle_large_type_2_d0b06935d3298260de59d033cbb2766d.jpeg?width=1200)
超長い自己紹介
超長いので(約1万文字)敏捷を読む事が苦手な方はスルーして下さい。
私は双極性障害で精神障がい者2級です。ブログそのものは20年以上前から続けています。現在では総文字数250万文字を超えていますが過去ブログは閉鎖してしまって私の手元にコピペしたデータとして持っているだけで表には出していません。
ブログを書き始めてから様々事がありましたがあの頃と現在では状況は全く違っていますし、考え方も大きく変わりました。そこでもう一回自己紹介を書いてみようと思います。かなり長文になりますので文章を読む事が苦手な方は読み切れないかもしれません。出来るだけ読みやすいように組み立てていこうと思いますが私という人間はまだまだ発展途上であるために稚拙な部分も多くなります。
それでは早速自己紹介に入ろうと思います。
私は物心ついた時には既に虐待を受けていました。幼児期の子供にとって大人からの暴力や暴言はとても恐ろしいものです。それがどんな事なのか思い浮かべて頂きたいのは小学生にも上がっていない子供に本気で暴力を振るったとしたら、大人の力で殴られる恐怖がどれだけ大きいのかという事です。
私より酷い虐待を受けてきた方は大勢います。ですから私は私が一番可哀想だとは思っていません。
私が受けてきた暴力や暴言のレベルは歯が折れて血だらけになったり血だらけのまま玄関から蹴とばされ数メートル吹き飛ばされてドアの鍵を閉められて「出て行け!戻ってくるな!」という父からの暴力と、何をしてもひたすら人格を否定して何一つ心配をせず自分の事しか考えていない母からの暴言で40度を超える熱を出して寝込んでしまっていても「どれだけ面倒かけるの!こっちがどれだけ苦労しているのかわかっているのか!」といった具合でした。
そういう事が日常で、且つ虚弱体質だった私は1か月のうちの半分は寝込んで床に臥せっている子供で力も殆どありませんでした。公営団地の5階に住んでいたのですが最初に自殺を考えたのは幼稚園の時です。窓の欄干に座って下を見て飛び降りようといつもいつも思っていました。実際に半分身を乗り出した事もありますが怖くてそれ以上は出来ませんでした。
幼稚園では悲惨ないじめを受けており川に突き落とされたり、胃腸が弱かった事もあり(当時はトイレの個室に鍵はついていませんでした)個室でしゃがんでいる恥ずかしい姿をクラス全員に晒されたり、立てなくなるまで足を蹴られて動けなくなって砂場で倒れたまま日が暮れたりと、大人だけではなくクラスの子達も恐怖の対象でした。
私には左肩に大きな黒いアザがあります。着替えやプールの時間にそれが気持ち悪いと激しくいじめられました。このアザは小学校を卒業するまでいじめの対象となってしまいました。
幼稚園の時に文化祭のような出し物があったのですがその時に自分が書いた絵だけが何故かとても印象に残っています。海の中に巨大な黒い魚が大量の血を吐きながら何故か小魚達に襲い掛かる絵です。真っ黒な魚に真っ赤な血と逃げ惑う黒い小さな大量の魚・・・。大きな魚はその絵の1/4を占めるほど真っ黒に塗りつぶされていました。
小学生に上がっても状況は変わらず虐待といじめは続きました。性的ないたずらも多く受けて女の子数人に体を拘束されて下半身を弄ばれたり、裸で廊下を歩かされたりと男の子ながらトラウマとして残ってしまっています。
他にもランドセルを玄関に置いていただけで殴られたり学校から渡されたプリントを親に渡し忘れたりしただけで殴られたり罵られたり、毎日のように正座をさせられて何時間も説教をされたりしていました。特に父親が酒に酔っている時は酷い有り様でした。この頃は父と母の仲がとても悪く毎日のように怒鳴り合いの喧嘩をしていて、子供の私にはそれが怖くて仕方ありませんでした。
殴られて口の中が切れて血が出てそれを吐き出す事にも慣れてしまっていました。何しろそれが日常でしたから、そして体が弱かった私には成す術がありませんでしたので受け入れるとか耐えるというレベルではなく反抗出来ない状態で、単に自分の生命を守る最低限の精神状態で何かを考えるといったものではありません。ただただ出来事が終わるまで時間が過ぎるのを待つ事だけしか出来ません。そういう状態でした。
この頃までの私の記憶には色がありません。思い出すエピソードは全てモノクロです。灰と黒の世界でしか思い出せない悲しい時代でした。しかし先に書いた幼稚園の時の絵だけは鮮明なカラーで記憶に残っています。
だいたい小学校の4年生くらいまではそうした暴力や暴言、いじめが続きました。人が怖くて仕方がなかったのでよく本の世界に逃げ込んでいたため、読書は多くしていた記憶があります。しかし学習障害があったようで特に記憶力が低く算数の掛け算は小学5年生になってもおぼつかず、思えば幼稚園の時にどちらが右か左かすら覚える事が出来ませんでした。
勉強には本当に嫌な思いしかしておらず「何のために勉強するのか」といった次元ではなく、勉強している事に疑問を感じる事すら出来ずに嫌な思いをする事なのだという認識しかありませんでした。結局中学になってもそれがわからず成績はずっと学年最下位でした。ここまでは身体が弱く運動も出来ず勉強も出来ずにひたすら辛い毎日が続いていました。
ですがここで産まれて初めて私の事をしっかりと受け止めてくれる大人に出会いました。それは5年生の時に新任教師として担任になった先生です。その先生の事は一生忘れません。ありのままの私を受け入れてくれたばかりか、その先生が担当していた陸上クラブに誘って下さり体力も学力も徐々に上がっていきました。特にクラブでは成長期とも相まってぐんぐん力を付けて小学校を卒業する時には学年で5本の指に入りまでになっていました。
この先生と出会う事が無ければ今のような私にはなっていなかったと思います。ここから先も大変な事はいくらでもあるのですが、先生の温かな心によって腐らずに生きてこれたのだと思っています。この先生は引き続き6年生の担任にもなったため2年間もの間、愛情というものを教えてくれたのだと思います。
ただ当時はそういう事を考える事が出来ずに先生の事が好きだという気持ちを持つ程度(恋愛感情ではありません)でした。それでも心の中に何かが芽生えていて私の心に決定的に大きな方向を示してくれていたのですね。今になってもそれは心に染み渡っています。
ここまで書き切れていない虐待やいじめはたくさんあるのですが、事細かに書いても意味はありませんので中学になってから成長してゆく姿を書いてゆきます。
中学になると今度は中学に上がったという実感が無く、相変わらず勉強は出来ず小学生の時に少し上がった成績も下がりやはり学年最下位になってしまいました。逆に体力の方はどんどん伸びてゆきました。これは小学生の時の陸上クラブからの続きで陸上部に入ったからです。陸上部の練習はとてもキツい内容でしたが嫌な気持ちは一切ありませんでした。
陸上部は先輩後輩の垣根が無く同学年同士もとても仲が良く和気あいあいとした雰囲気でとても楽しかったからです。1日で20キロ近く走るような厳しい練習でしたが市内ではナンバーワンの力があった学校です。群大会でも入賞するレベルの学校でした。そんな中で頑張っていたので小学生の時には学年ビリだった私が学年ナンバーワンにまでなっていました。
勉強の方はというと中学1年の冬のアチーブメントテストの偏差値が35以下という悲惨なもので、さすがにこの成績はマズいと感じて本腰を入れようと塾に入り毎晩夜中の3時まで勉強をして、そこから朝6時に起きて部活に行くというハードな生活を送るようになりました。非常に厳しい塾で講師は本当に怖かったですし怒号が飛び交っていたため幼少時のトラウマがよみがえり体が硬直するなどかなり辛い状況に追い込まれました。
それでも必死に頑張り続けた結果、高校入試前に偏差値は67~8程度まで上がっていきました。一生のうちで一番努力した時期だったかもしれません。
中学の時には誰も学級委員長や何かの委員会に入る事を嫌がる生徒が殆どで、小学生の頃からの弱気な性格があっていつも学級委員長を押し付けられていました。しかし途中で押し付けられた事を諦めて逆に内申点を良くするために進んで引き受けるようになり、学級委員長を統べる学年委員長という事をするようになりました。
この頃にはいじめは無縁で友達も多く出来て、一部の生徒がからかってきてもどこ吹く風でした。面白かったのは小学生の頃の私を知っている者達は小ばかにしてくる人達が少数ながらいて、そのうちの一人が「お前は何処の高校に決まったんだよ?俺は〇〇高校だ!」と言ってきたので「〇△高校だよ」と進学校の名前が出た瞬間に驚きの余り絶句してしまって静かに去っていった事です。それくらい立ち位置は格段に上がっていました。
これは余談ですが陸上部でもトップで学年委員長をした事もあって全校生の前で壇上に上がる事が多く目立つ存在になっており、その頃は恋愛って何?という何も考えていなかった状態で気が付かなかったのですが異様にモテていました(笑)後から思い返せばという話ですけれども。
そうした中学時代だったため高校は進学校へ入学する事が出来ました。高校は穏やかな雰囲気の学校で、しかし勉強はしっかりとしなければならない雰囲気も流れていて中学の時に頑張った勉強ほどではありませんでしたが日々の授業をしっかり聞いて予習復習を怠らずにコツコツと続けていった結果として評定平均は4が付き(5段階評価)大学は推薦を取れるまでになっていました。高校でのエピソードは平和なものが殆どで麗らかな春といった感じでしたが、平和すぎて何故かあまり覚えていません。人間というのは悪い事だけはよく記憶してしまうものなのですね。
高校1年の時に自我が出来てきたのか頭が回るようになっていたからなのか、それまでの自分を振り返ることへは思いは巡りませんでしたが「自分って何者なんだろう?」という疑問が出てくるようになりました。そこで図書室でフロイトの精神分析の本に出合いました。難しすぎて何が書いてあるのかあまり分かりませんでしたが心理学という分野がある事を知り、そして大学は心理学科を選び進学しました。
実は大学がどういう所か全く分からずにデザインの専門学校に通いたかったのですが、親が「うちには大学に行かせる金があるんだ!大学に行け!」と言ってきたので受験から逃げていると思われるのが癪(しゃく)でしたので推薦を取って受験してみたら受かってしまったんですね。
訳も分からず大学へ進んだわけですが大学では孤独が待っていました。この頃から本格的な鬱になってしまいました。大学へはあまり良い思い出が無く3年のゼミが始まるまでは陰鬱とした日々を送っていました。大学も3年ともなると講義の数も減り休みばかりの日々になって(さぼりではありません)、アルバイトに精を出す日々に変わってゆきました。
ちなみに学部レベルの勉強では自分探しをするほどの内容ではなかったため、そういう気持ちは何処かえ消えてしまいました。後に鬱が酷くなり大学院の講義を受けるまでは何も気付く事は出来ませんでした。
そんな時に始めたのが歩いて5分ほどの所にある温水プールでのライフセーバーのバイトです。そこで人生を狂わす出会いがありました。何故かバイトでもモテていたので色々な女の子が寄ってきていたのですが、最初から特に近しい仲だったわけでもない相手が人生初の恋人になりました。お互い初めての恋愛でその後8年間も付き合う事になったのです。
私は人生で初めて相手を心から信用してありのままの自分を晒しだしました。全てを信じ切って全てを許して幸せな日々が続いていました。ですがそれが8年後に人生で最も私を傷つける期間になるなど思いもよりませんでした。ちなみに鬱屈としていた大学生活ですがバイトをするようになって恋人も出来て、3年生の頃にはすっかり鬱が抜けて明るくなっていました。
また余談ですが大学入学(高校の時もでしたが)は受験戦争の時代で、大学を出た時にはバブルが崩壊していて就職難の時代という不遇の世代です。団塊ジュニアというやつですね。
そんな時代でしたが就職は少しだけ名の知れた上場企業への就職が決まりました。あの時代はブラック企業という言葉は無くパソコンも一般的なものではなかったですし、携帯電話も普及していませんでした。ですので得られる情報は少なくどういう状況に置かれているのかはさっぱり分かりませんでした。そんな時代でしたので1日16時間働く事が当たり前で徹夜もしばしばでした。
忙しい日々を過ごしながらも恋人もいて充実した毎日でした。そんな日々を過ごしていたら突然恋人が別れを告げてきました。別の男を作って結婚するから別れるという事でした。その時相手は社会人1年生の春で何もかもが新しく新鮮で世界が輝いて見えたのかもしれません。
そして別れ話は酷いものでした。散々罵倒されて人格を否定されて心をずたずたに切り裂かれてしまいました。別れ話で「もう電話してこないで!他の男と話しているなんて彼に申し訳ないの!」とか「私は友達に誰一人として紹介した事は無かったのは何故だか分かる?(人間として)恥ずかしくて紹介出来なかったからよ!」などなど書いたらキリがありませんので書きませんがともかく酷かったです。
8年もの間付き合って幸せで笑顔が絶えなかった時間があったにもかかわらず酷い言葉を投げかけられる意味が全く分かりませんでした。ちなみにお互いに結婚の約束を固く誓い合っていました。
私はそこでずたぼろになり、接客業だったのですがある日お客様に「おい!その態度はなんだ!!こっちは客なんだぞ!」と怒鳴られた時にはっと思い鏡を見たら本当に酷い顔をしていました。この時の1か月で体重は15キロ落ち、まともに眠る事も出来ず常に絶望感しかなく死んでも構わないと車を暴走させていました。
その時点で「もうこの仕事は続けられない」と思い(それでもまだ何とか動けたので)国家資格を取って転職するために専門学校へ入り直しました。専門学校へ入って1か月も経たないうちに電車内でフラッシュバックを起こしてしまい立っていられなくなり、その場で電車を降りてへたりこんだら丁度精神科の看板が見えたので吸い込まれるように病院へ駆け込みました。
ただ専門学校は好きな事の勉強だったので成績は最初から最後までトップで県から表彰されるほどでした。この頃からホームページやブログを本格始動したのですが、当時はSNSも無かったですしウェブマーケティングをするような時代ではありませんでしたので個人のホームページが百花繚乱していて、私のホームページはけっこうな人気を取り月刊PVが3万程という数字を叩き出していました。
ホームページにも膨大な量の文章を書いていたのですが(メインはホームページでしたので、その文章を全て失った事は今となっては勿体ないですね)、残念ながらブログの文章しかサルベージする事が出来ず手元にはその頃からのデータしかありません。
別れてしまった後、どうした経緯なのか女性関係が滅茶苦茶になって付き合っては別れての繰り返し。恋人が途切れる事はありませんでしたが、どれも上手くいかずに付き合った人数だけが増えていきました。私は性に対してとても淡泊でどちらかと言えば嫌いでしたが、性依存の女性と知り合って余計に嫌になったり恋愛にのめりこめなくなったりと、何もかも上手くいかなくなっていました。
それでも仕事については国家資格を取って転職に成功しました。しかしその業界もブラック体質で何度も倒れては転職をしてという事を繰り返しているうちにいよいよストレスが多大になって、精神性の視野欠格で左目の半分が見えなくなってしまいました。そこで仕事を続ける事が出来なくなってしまい。派遣やアルバイトで細々と食いつないでいました。
大学院の講義を受けたのはこの時です。何もかもが滅茶苦茶で本気で自分探しをするために心理学の勉強をやり直しました。そこで初めて自分がどうして歪んでしまったのかを知る事が出来ました。それは家族心理学という分野で機能不全家族で育ったからという事なのですが、説明が長くなりすぎるので端的に言うと「家族という構成単位はその形を維持しようとするために、歪みを誰かに押し付けていけにえにしてバランスを取る」という事です。
私には妹がいるのですが、妹は何の虐待も受けずむしろ大切に育てられ今では結婚して家を出ています。妹なりに思う所があったはずで、妹は基本家には帰ってきません。両親と妹という家族単位を守るために歪んだ負の部分が全部私に向かっていたわけです。それが虐待となっていたんですね。
それでも更に勉強を続けているうちに「親も被害者なのだ」という理解の仕方をするようになりました。何故なら親の親は戦争時代の人ですから悲惨な人生どころではありません。そんな親から育てられた両親が歪んだ精神になってしまっても仕方がありません。
そうした勉強をしたおかけで親を許す事が出来た時期もありました。過去は一旦置いて丁寧に状況を説明してたっぷり時間をかけて納得させ、一時的にある程度は良好な関係になりました。過去形なのは親が高齢になるにつれて昔の性格に戻ってしまったからです。
さて派遣以降ですが精神障がい者になってからは年齢も上がった事もあって差別偏見パワハラが耐えなくなって、それは何度転職しても同様で鬱状態はどんどん悪化して「それでも!」と立ち上がりまた倒れてと何度も何度も繰り返しているうちについに動けなくなってしまい、寝た切り状態になってしまいました。そうして色々な修羅場を抜けて今があります。
まだまだ続きます。ここからは考え方について書いていこうと思います。順を追って書いていくのでここまでの話と被る事もあると思います。
まず根底に流れているのは人間不信です。親から愛情を受けてこなかったため愛情の土台がありません。愛するという事は恋愛などの好きという感情とは土台が違います。愛情を死r内という事は自分自身も愛せないため精神が歪んでしまいます。そうなれば自分の体験を通じ知識を得て言葉で自分を作ってゆくしかありません。それはパターン化したものを客観視してその時々の状況に合わせて、どういった反応が正しいかといちいち決めていかなければならないという事です。
しかし感情が無いわけではありません。特に負の感情は強さが倍増されて自分を食い尽くそうとしてきます。もちろん笑う感情も恋をする感情もあります。ですが負の感情を持つ事の方が圧倒的に多くなります。発達心理学では3歳まで(実際には3歳で明確に区切りません)に人格の土台が決まると言われています。
本来受け入れてもらったり肯定されたりダメな事はダメだとしっかり教わったりする事で社会的な態度を身に付けてゆきます。ところが幼児期は親が絶対的存在で親が(育ての親も含みます)いなければ食事をする事も出来ずに死んでしまいます。そのため親の態度が自分の世界が全てとなってしまいます。世界のすべてという事は成人にとっての社会生活を指します。そのため影響は勉強や運動能力の成長だけでなく精神的な健康や社会的協調性、やる気や忍耐力といった事も成長せず自己肯定感が低くなります。
ですのでこうしたブログを書いて常に自分や社会を客観視して、まるで監視するかのごとく注意を向け続けていなければ社会的逸脱に陥る事になってしまいます。そうなると常に合理的判断に基づいて自分の態度を決定する必要があり更に自分の精神・感情を押さえつけていなければなりません。それが私という人間の土台です。自分を押し殺さなければならないため負の感情を精神の奥底に抑えつけておく必要があります。こびへつらう事も事故防衛の一つです。周囲の環境を自分にとって都合の良い穏やかなものにするためにはどんな手段を使っても相手の感情を刺激して怒らせないようにする事が必要です。
相手を怒らせてしまう事は死活問題です。散々説得を繰り返しどうすれば人の感情を逆なでしないかは親に対して接する方法で身に付けてきました。相手が怒っていてもこちらは常に冷静な態度で柔らかい声で話す事が重要です。それで周囲が和むならば自分の心を犠牲にする事に大きな価値があるのです。
私は相手が激怒したり大声を出したりすると過去のトラウマから体が硬直して思考停止してしまいます。そしてそういう相手に対しては心を完全に閉ざして自分を守ります。若い頃はそれに対して自分自身も怒りを感じていましたが今では怒りを感じずあきらめるようになりました。
色々な人がいますがその場で相手をなだめて一時的に怒りを抑えたとしても、そこに温情を一切感じずに次の瞬間にはまた怒り出す人もいればあ、受け入れてもらえたと次からは怒りを向けてこないで心を開いてくる人もいます。心を開いてくれる相手でも別の事で怒るので、その愚痴を聞かされてこちらを疲弊させてくるのですが・・。
他に覚えた事と言えば相手と深く関わらない事です。それが例え恋愛だとしても私の心は閉じたままで、相手に合わせて機械的に会話をする感じです。ですから私にとっては相手が好意を寄せてきたとしても表面上優しく接するだけで心を開く事はありません。簡単に心を開いてしまうと裏切り行為があった時に大きな傷になってしまう事を知っているからです。
ですので心が大きく動く事はありません。動かさないようにしています。怒りに対して取る態度のように自分の心を守るために必要な事なのです。相手がどんなに気持ちを寄せてきても喜ぶ事が出来なくなってしまいました。そうしている事で友人を作る事も出来ませんし、恋愛をする事も出来ません。常に受け身で自分からは好意も怒りも相手に向けません。表面上自分に都合がいいように相手を操作する姿勢を頭で考えて発信します。
何もかも頭脳戦です。愛情の土台が無い私は情で考えてしまうとネガティブな感情だけになってしまいますので、経験と知識を融合させてパターン化された態度で(相手によって微調整をします)自分を切りかえます。長年研究をしたり実験的に動いてみたりして、人間の心は案外単純で簡単なヨイショだけで気分が上がるものなんです。そうしていかに効率的に敵を作らないかを学んできました。
体験と知識の融合に関しては以前ブログに書きましたのでそちらをご覧頂ければと思います。
長年虐げられてきたわけですが、鬱は知識(と経験)を得る事で劇的に軽減できる事を知る事が出来ました。この方法が使えるのは相手がいるからこそです。引きこもって一人でいると、それはそれで楽でいいのですが、やはり陰鬱な気分に支配されてしまいます。そういう意味では人と接している時の方が活き活き出来るかもしれませんね。
と、精神面の事を書いていると何処が自己紹介なのか分からなくなってきましたのでここらで閉じようと思います。結論だけまとめますね。
私という人間は過去に味わった辛い経験を無駄にせず、逆にそれを活かす事を覚えて知識によって人間関係を調整する事が出来るんです。むしろ辛い経験があればこそこうした考えに至る事が出来たし、もっともっと辛い経験をしてきた方には出来ないであろうセルフコントロールが出来るのだと思います。