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生かされてる、とかではなくて
そのとき私は六本木のDEAN & DELUCAにいて、韓国の詩人ハン・ジョンウォンのエッセイ『詩と散策』を開いていた。
その本を読み進めることは、静かな冬の森を歩くことに似ていた。つめたくて澄んだ空気と、穏やかな水辺の気配が、ページの余白に漂っていた。
だけど同時に、その森の奥深くで何かがごうごうと燃えている気配を感じていた。真っ白な積雪の下に、怒りや憤りに似た強い感情が潜んでいる気がした。
手に入れられないものが多く、こわされてばかりの人生でも、歌を歌おうと決めたらその胸には歌が生きる。歌は肯定的な人の心に宿るというよりも、むしろ必要にかられて呼び寄せる人に沁み入るのだ。
それは、混沌を見つめる人にしか書けない言葉だった。混沌の中で、それでも美しいものを瞳に映すことを諦めない人の、凛とした眼差しが言葉に宿っていた。
同じとき、私はオリヴィア・ロドリゴの「deja vu」を聴いていた。この時期、私はこの曲をどれだけ聴いても聴き足りず、中毒的にリピートしていた。
オリヴィアはその歌の中で、別れた恋人への憤りを歌っていたけれど、何度聴いても私には、恋愛の甘くて美しい瞬間を凝縮した歌に聴こえた。
彼女がどんな混乱を歌っていても、そのメロディーと歌声から輝きが溢れ出していたからだ。
That was our place I found it first
I made the jokes you tell to her when she's with you
Do you get deja vu when she's with you?
Do you get deja vu?
そこは私が見つけた場所なのに
その子を笑わすそのジョークでさえ
私が教えてあげたのに
彼女と一緒にいると思い出さない?
前にも同じことをしたって思わない?
デジャブを感じない?
ハン・ジョンウォンの言葉とオリヴィアの歌声が同時に流れ込んできたとき、わたしはふたりの眼差しに同じ光を見た気がした。人生の残酷さも甘美さも見つめている眼差し。彼女たちの瞳の中で相反するものが揺れ動き、その光が言葉を通して放たれていた。それを「うつくしい」と思ったその瞬間、私の中の相反するものも揺れ、そして光った。
生きていると、時折こうした感覚が訪れることがある。本の一節や、聴いている音楽に、自分がすうっと溶け合うような感覚。
人はこうした感覚を「音楽や本に生かされている」と表現するかもしれないが、私には「一緒に生きている」という方がしっくりくる。同じ光景を見たときに、こっそり目配せして「綺麗だね」と頷き合うような、そんな距離感での「一緒に生きている」だ。
たとえば、疲れてしまったとき、ヘッドフォンで音楽を聴いたり、ぱらぱらと本をめくることでほっとするのも、わたしなりに世界との心地よい繋がりを感じるからかもしれない。
私も生きている間に、眼差しを閉じ込めたようなものをなるべく書きたいし、残したい。自分の中の混沌から目をそらさず、それでも人生にひとつでも多くのときめきを見つけたい。見えない誰かと「ちゃんとそこにいる?」と目配せしあって、一緒に生きていきたい。
本をひらき、ヘッドフォンをして、そんなことを考えていた。