【noteを書く理由】文章は「孤独な学生」だった私を世界と繋げる鍵だった
子どもの頃から、
ずっと、漠然と、一人だった。
友達は、いたけど。
何かさみしかったし、心細かったし、
誰かにふれたい、と切実に願っていた。
家族も友達もいるのに
こんなにさみしい自分は、
何かおかしいんだろうなって思ってた。
中学生の時に「抱き枕」が流行って、
少ないお小遣いをはたいて、
期待を込めて買ってみたけど、
抱き枕をギュッと抱いてみたところで、
自分の心も体も、空虚でさみしいままだった。
浜崎あゆみの全盛期に、
セール品として1000円で売られていたその抱き枕は、
派手なヒョウ柄だった。
大きくて、部屋に馴染まなくて、
しばらく、私の部屋のやっかいな同居人として、
無駄にスペースを取っていた。
あれは、いつ捨てたんだろう。
*
高校2年生の時、初めて付き合った人に振られて、
世界と隔絶されたような気持ちになった。
たくさん泣いたら、
一晩で体重が2キロも減っていた。
涙だけでは2キロはいかないと思うから、
私の体から、何か、
生きるために大事なものが
抜け出ていったんじゃないかと思った。
自分の毎日から、
全部の色がなくなって、
食べ物の味もしなくなって、
全部に意味がないように思えた。
もう、誰にも、さわっちゃいけないんだ。
誰も、私のことなんて見てくれないんだ。
チアリーディングの部活に入っていたけれど、
「こんな衣装を着たって、誰も見てくれないから、意味ないな」って
心がプツッと切れて、辞めてしまった。
そんな理由で辞めたなんてことは、
当時、誰にも言えなかった。
そして、こんなに深く、長いこと落ち込んでいる自分はカッコ悪くて、変で、
友達を困らせちゃうから、嫌われちゃうから、
これ以上、泣きごとを言ってもいけない。
そんなふうに思っていた。
*
大学生になって、
大学生は本を読むというのが、
なんだか知的で、お洒落風味で、かっこいいってことになってるぞ、と思って、
兄の本棚にあった、
よしもとばななさんの『バナタイム』というエッセイを手に取った。
当時の私にとって、よしもとばななさんは、
ただの「知らないおばさん」だった。
その、「知らないおばさん」が、ただ日常をつづったものが、
こんなに、面白いだなんて。
こんなに、胸を打つだなんて。
その本の中には、「私の知っている感情」がたくさんあった。
その時に初めて、
「あ、私は一人じゃなかったんだ」
と気づいた。
初めて、
世界とつながった気がした。
こんなにいろんな気持ちを抱えていたのは、
私だけじゃなかった。
口に出せなくても、
こんなに悲しくて、
こんなに怒ったりして、
こんなに情けなかったりして、
こんなに好きだったりして、
それで、大丈夫だった。
私だけじゃなかった。
それから私は、いろんな本を読んで、
いろんな人の文章のなかで、
自分が感じてきた様々な感情を見つけた。
見つけられるとすごく安心して、
「存在しないもの」として固く蓋を閉ざされていた感情たちは、
安心して、成仏していくみたいだった。
たくさんの感情が出口を見つけていき、
涙といっしょに流れ出ていった。
*
社会人になってからブログを書き始めると、
(当時はアメブロを書いていた)
私の文章を読んで、見知らぬ誰かが、
共感した、とか、泣いた、とかコメントをくれるようになった。
私がたくさんの文章に助けられたみたいに、
だれかが、蓋をしてきた感情と再会するための
手助けを自分もできたのなら、
それは、すごく嬉しいことだと思った。
私は、文書を書くうえで、
正直になればなるほど、
自分をさらけだせばだすほど、
誰かの感情を「解放」できるんじゃないかなって、思ってる。
だから、これは「解放運動」。
誰の心にもたくさんの気持ちがあるし、
存在しちゃいけない気持ちなんて、ない。
たぶんみんな、
心の中は、
めちゃくちゃゲスの極みで、
同時に、めちゃくちゃ、キラキラ綺麗。
それが、面白くって、可愛い。
何を感じても、
どう思っても、
どう生きても、
なんでもいいから、
今日も、できれば、楽しく生きようね。って、
自分と、顔も知らない誰かに向かって、
ひっそりコツコツ書いております。
本日もお読みいただきありがとうございました♪
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みけ みわ子