
ミズタマリ 2-5
「アキラ君がどうかしたのか?」
父は不思議そうにカイトを見る。その表情はいつもと大して変わらない、 少しカイトの勢いに驚いている様子で、まじまじとカイトを見ている。
「確かにアキラだよね。俺と同じクラスで、この近所の松井アキラだよね!」
カイトは念を押して、そう、何度も聞いた。
「ああ、そうだよ、何を変なことを言っているんだ、小学校は違ったが、 中学生になったら同じクラスになったと言って、喜んでいたじゃないか、 アキラ君とは毎年町内の運動会では同じチームに入ってるから、 何度かわたしも話したことがあるよ、活発で愛想のいい少年だ。 それにお父さんの松井さんとは町会の付き合いでは、いつも一緒だから、 よく知っているよ、お酒も何度か飲んだことがある。」
父のその話を、カイトは黙ってじっと聞いていた。
アキラを覚えているのが自分だけでは無いと知って、希望が湧いた。
その一瞬後、喜びと同時に不安も湧き出てくる。
自分のした事が知れれば、咎められるとは思ったが、 それが解かっていても、 ずっと自分の心の内に秘密を閉じ込めておくことは出来ない。
皆に習うようにアキラを忘れる事も、出来るとは思えなかった。
それに、もう、カイトの心は、その重荷には耐えられなくなっていた。
「お父さん、俺… 」
カイトは昨日からのことを全て父に話してしまおうと決意した。
「ん? 何だ、思いつめた顔をして。」
父がカイトの話を促すように待っている。
「あの… 」
カイトが話はじめた時、
「お待たせ、ほら、あなたの好きな冷酒の濁り酒よ。」
母が明るい声で言いながら、 台所から濁り酒を氷で冷やしたガラスの瓶とガラスの杯を持ってきた。
ガラスの瓶は二重になっていて、 上の瓶の酒に下の瓶に入れた氷が、触れないようになっている。
母は、その氷を台所で砕いていて、父と息子の話は聞いていなかったらしい。
「あら、カイト、お父さんと喧嘩でもしてるの?」
真剣なカイトの表情に怪訝な顔をする。
「いや、何でもないよ。」
父が何かカイトから感じ取ったのか、そう言ってそれから、
「ところで、松井さんの家には何人子供がいたっけ?」
何気なく自分の妻に聞いた。
「やだわ、男の人ってすぐ忘れるのかしら、 あなた。松井さんのところはお子さんいないわよ。」
すぐにそういう答えが、くすくす笑いと共に返ってきた。
「そうか。」
父は、意外な事を聞いたような顔をして、それから、カイトを見た。
その視線は、射るような強い視線だった。
「カイト。」
突然、父が立ち上がった。
「今から一緒に風呂に入ろう。」
カイトから視線を外さないで父は、そう言った。
「うん。」
カイトはすぐに答えた。
「え? あなた、冷酒は?」
母が驚いたような顔で聞く。
「悪い、風呂上りに飲むよ。氷をたしておいてくれ、」
父はそう言って、浴室に向かう。
カイトがその後ろを追うように付いて行く。
「あら、男同士の話なのかしら?」
母は二人の後姿を見ながら、のんきにそう言うと、 夕食の後の汚れた皿を、まとめて台所に運ぼうとする。
パリン。
指先でも当たったのか、 冷酒の瓶と同じ模様のガラスの杯がテーブルから落ちる。
「あら、残念。割れちゃったわ。」
三つに割れた杯の破片は、食卓の電灯をあびて、鈍く輝いていた。