人生が不思議な流れに乗っている(ような気がする)みけ子の場合💦
昨日、年賀状のことをnoteに書いた。年賀状を木版画で作り、知り合いや親戚、友だちに出していた頃の事。
木版画の年賀状を作ろうと思い立ったキッカケ(菓子折りの蓋が板木にピッタリに見えた)もちょっと変だし、その後素人なのに版画展やろう、と考えたのも今思い返せは無謀の極みだ。
だけど実際にそんな流れだった。
昔から美術的な事には興味があった。中学の時入った部活が美術部だった。中学の頃に竹久夢二を知って大好きになった。そして夢二が生きて活躍していた時代に興味を持った。日曜美術館は20代から毎週欠かさず見ていた。だけど絵は超ヘタクソなのだ。
骨董とか古道具とか、時代を経たモノたちが大好きだった。叔母が古いモノ好きだったけど特に影響を受けたとは思えないし、古いモノ好きになったキッカケは良く覚えていない。
旅行が好きで一人であちこち旅して歩き、中でも古い街並みや建物に強く心惹かれていた。歴史ある港町が特に好きだった。横浜や函館、長崎など開国の時代に港が開かれ、レンガや石で作られたエキゾチックな洋風の街並みが残る。木造で洋風建築を真似た作りの家々。そんな古い街にとてつもない魅力を感じた。街を歩いていると、自分がそんな時代に生きている、そんな気持ちになった。
スケッチを出来るほどじゃなかったから写真を撮った。そんな古い建物に住んでみたいと思った。
旅先の美術館には必ず立ち寄った。旅先で見る絵画や美術作品がことのほか心に沁みた。木版画という表現手段は古い建物と相性が良いみたいだった。
仙台の街なかに残る、古い建物を題材にして版画展を開いて見ようと思った。そして無料で借りられる公的な場所を押さえて、版画展を開いてみた。特別な反響はなかったけれど、自分なりの手応えがあったので続けてみようかと思っていた。
続けるのには、地元に残っている忘れられ埋もれた古い建物をもっと知らなければならない。掲載無料のタウン誌に情報を求めた。
反応を返してくれたのは、たった1人。だけどその人物との結びつきが、その後の建物の保存活動に繋がって行ったのだ。
その建物保存が実を結び、その建物群は今は市内の中心部近くの登録文化財になっている。この事だけを考えても不思議な流れとしか思えない。
更に、自分に子どもが出来て家族も増え、両親は要介護になった。最初に母みけが病気で倒れたのは62歳の頃。その後25年近くの要介護人生を送って数年前に亡くなった。子ども嫌いのみけ子が子どもを持つことになり、その上人の世話など全く念頭になかったのに両親の介護役。
市民活動をやっていた時は、慣れない団体運営に胃がキリキリする日々だった。人間関係の煩わしさや難しさは筆舌に尽くせないほと。だがそんなの自分には出来ない、合わないと言っている場合ではなかった。有無を言わせず巻き込まれたって感じだったから(自分から作って飛び込んだ流れだけど)。
好き嫌いが激しくHSP気味。多くの人と上手くやって行くのは不得手。独自の感性で我は強いし周囲と妥協しない。自分が良いと信じたことは貫き通す。ひとりでもやりたい事をやる。
だけど、介護子育て経験もあってか、諦めずに取り組んで実を結んだ。介護や子育てが多少なりとも役に立っていたかも知れない。
そして今。シェアハウスの運営と極小規模の賃貸経営をやっている。自分好みのインテリアを作りたい、ステキな居場所を持ちたい、と言う希望はいつの間にか叶っている。古民家ではないただの古い家だけど、自分の所有する自分が自由に出来る不動産だ。古いステンドグラスも飾った。
古い戸建て住宅のシェアハウス、自分は住んでは居ないけれど自由にしつらいを考え、全て自分好みのインテリアなのだ。20代の頃、旅先で見つけた美術骨董店に飾ってあった肉筆日本画。それが今、シェアハウスのリビングを飾っている。
賃貸経営も楽ではない。心配事も山ほどある。気苦労も多いが今はそれほど無理せずに不動産の賃貸経営に当たれている。好奇心は強いけれど、新しい事に手を付けてはイヤになって投げ出しを繰り返していた自分。でも様々な経験を経て、今こうしてこの場所に居るのだ。
とても不思議な気がしている。なぜ自分はこの場所に導かれ、今ここでこうしているのか、と。ナニモノかに導かれている。誰かがみけ子を「こっちだよ」と手招きしている、と思うのは考え過ぎかね?
間違いないのは、全て(なんとなくでも)自分が思い描いていた事だ、という事。
望みが全て叶っている。それは間違いない。
これを不思議と言わず、何と言いましょうか?
2022年冬至の日に
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