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ワインと地中海#47/マグナ・グラエキア#04


「一番最初にシチリアに入ったのはギリシャ人じゃなくてフェニキア人だったのよね」と嫁さんが言った。
「ん。北アフリカ側から島伝いに渡ったろうな。サントリーニの大爆発以降だ」
「無人島だったの?}
「いや、先住民がいた。エリミア人Elymians/Sicaniシカニ人/Sicelsシケル人という部族が島を三つに分けていた。イタリア本土から渡ってきた先住民だが、印欧語族だからラテン人より早く西アジアからイタリア半島へ流れ込んだ人々だろう。いわゆる原住民ではなかった。フェニキア人は彼らと交易するためにシチリアに入ったんだ。占領目的ではない。だからフェニキア人はいつものように海岸沿いに小さい交易所をたくさん作り、内陸には進出しなかった」
「やっぱり、フェニキア人って海の人なのね」
「BC750年ころからシチリアに入り始めたギリシャ人は、そうはいかなかった。場所を確保すると、次第に地勢を伸ばしたんだ」
「え~でもギリシャ人も、そのころはもう海の人になっていたんでしょ?交易の場所を確保するだけじゃなかったの?どうして?」
「移植というのは、2パターンある。商いの道を求めて男たちの集団が交易所を作るAパターン。もう一つは家族を連れて移植するBパターン。これは移植というより移住だろう。ギリシャ人のイタリア半島進出は、移植というよりはむしろ移住だったんだろうな。
たとえば北アメリカ大陸だが、よく似たパターンを辿っている。最初、フランス人を中心とする欧州大陸の男たちがメキシコ湾から入って、川沿いに北へ広く交易の場所を広げたんだ。もちろん大半が男性単身の集団だった。しかし彼らが開拓したんで北アメリカ大陸中央部の大半は自動的にフランス領土のものになったんだよ。一方、西海岸側はスペイン人がメキシコ人を伴って、メキシコ側から広がっていた。彼らはコロンブスが嘯いたエルドラドを求めて、北アメリカまで探索を広げていたんだ。だから、こっちは家族連れというより奴隷付き・・という感じだった。東海岸は違う。英国王の棄民の地という位置だったから、移植させられたのは大半が家族ごとだった。西海岸はメキシコが独立したことで強制的にスペインへ追い返された。東海岸は棄民の数が増えることで、なし崩し的に専有地を増やし、最後はフランスが領土としていた中央部まで奪い取ってしまった。・・同じようなことが2000年前のシチリアでも起きた」
「ギリシャ系は棄民だった、ということかしら・・ということはギリシャ側で何かが有った?」
「でなければ、決死の航海だ。家族を引き連れては海に乗り入れたりはしない」
「フェニキア人は?そんなギリシャ人に対してどう対応したの?」
「どうもしない。既に島西側・モティア Motya、パノルムスPanormus、ソルントゥムSoluntumなどは町の形を取り始めていた。だけどフェニキア人はギリシャ人たちが台頭すると、さっさと彼らに任せて撤収したんだよ。フェニキア人は土地に執着することない人だった。商いがすべてな人々だった」
「だった?」
「ん。フェニキアがローマ的帝国主義化するのは、カルタゴにマゴー王朝Magonidsが建ったあたりからだ。マゴー一世は軍人上がりだったからな、フェニキア人的な商人感覚を持ち合わせていなかった。彼は、台頭するギリシャ人勢力に対抗するため、地中海西部全般に展開していたフェニキア植民地を取りまとめて、カルタゴ中心の巨大軍事大国に換えてしまったんだ。これが結果としてローマに脅威を与えてしまうわけだが・・」
「そんなにギリシャ人がフェニキアの土地へ食い込んだの?」
「ん。当初はやり過ごしていた。イタリア半島西側を北上して、マルセイユあたりまで入り込んだときは見過ごしていたが、次第にイベリア半島にまで入り込むようになると、さすがに黙ってはいられなかった・・ということだろう」
「軒先借りじゃなくて、母屋まで自分のものにしたがったわけね」
「そして、そのうしろにローマが控えていたということだ。第一次ポエニ戦争でカルタゴが敗北した後、シチリアはそのままローマの属州として併合された。島はローマ人が掌握し、実質的にはギリシャ系が暮らすようになっている」
「フェニキア人は?」
「奴隷」
「奴隷ねぇ」
「先住民だったエリミア人/シカニ人/シケル人たちは、ギリシャ系の中に融合されてしまって、現在に至る」

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勝鬨美樹
無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました