小説特殊慰安施設協会#27/木挽町からの巣立ち
翌日13日、千鶴子が事務所に出ると、いつものように林穣が先に出社していた。一心不乱にタイプライターを速射砲のように叩いている。
「おはようございます」千鶴子が言うと、書類から目を離さないまま片手を上げた。
千鶴子の机の上にも書類が山積みになっていた。千鶴子は椅子に座ると、すぐにその書類を手にした。千疋屋で開くキャバレー関連の書類だった。出入り業者への書類。ダンサーの稽古場や衣装。美容室の問題。追加工事の予定表などだった。
これを英訳するの?千鶴子は思わず林穣を見た。その千鶴子の視線に気が付いた林穣がタイプを打つ手を止めた。そして千鶴子を見た。
「奥の会議室に、キャバレー部の各責任者を集めてください。17日オープンに向けての打ち合わせを9時からします。」林穣が言った。
「はい!」千鶴子が力強く返事した。しかしそのまま動かずに林穣を見つめていた。
「どうしました?」林穣がタイプの手を止めないまま言った。
「実はお願いがあるんです。」
「なんですか?」
「キャバレーのほうでダンサーとして働かせていただけませんか?」
「どうしてですか?いまの仕事に不満ですか?」
「いえ。ダンサー寮に入りたいんです。いまお邪魔しているお宅に、そうそういつまでもご迷惑をおかけしていられないので。」
林穣はタイプを止めて、千鶴子を正面から見つめた。
「たしか隣のビアホールでボーイとして雇用した若い男の子の家でしたね。」
「はい。実家のご近所の方の家です。」
「そうですか。ダンサー寮ですか。仕事は掛け持ちになりますよ。それでも良いんですか?」
「・・この仕事も続けていいんですか?」
「もちろん。あなたは希少な人材だ。ここの仕事を辞められては困る。だから掛け持ちです。それでも良ければ、私から人事の方に話します。」
それだけ言うと、林穣はそのまま仕事に戻った。
「ありがとうございます。」千鶴子は深々と頭を下げた。
9時からの会議には、キャバレー部の主要スタッフ全員が集まった。
林穣は各担当者から現況と問題点の報告を受けると、その場で判断し、その場で指示を出した。ひとつひとつの課題をてきぱきと片付けた。
「さて。私は横浜税関ビルへ行きます。18日に、GHQは第一生命ビルに越してくることになっています。その前準備で向こうも大混乱してるでしょうから、今日がおそらく最後の打ち合わせになります。長引くと思いますから、もし連絡事項があれば、萬田さんに伝えてください。彼女から明日の朝、報告を受けます。」それだけいうと、林穣は浅く一礼をして退室した。全員が立ち上がって一礼した後、そのまま着席し、会議が続いた。
あまりにも有機的に、さまざまな問題が絡み合っているので、その調整は細心の注意を必要とした。途中から調達部の担当責任者と施設工事の担当者も参加した。
内装工事は遅れていた。調度品と資材の調達が儘ならないのだ。林穣から警視庁の高乗課長に協力の要請をしているのだが、それでも中々思うようにはならない。苦肉の策として林穣は、9月に入ってR.A.A.が買い漁っている都内料亭から、目ぼしい調度品を集めるように指示していた。しかし集まるものは純和風のものばかりで、キャバレーで使うには無理があるものばかりだった。
「このままじゃ、奇妙奇天烈な店になるぜ。」
「ま、でもそのほうがオリエンタルで、アメちゃんは喜ぶぜ」
食材の調達は順調だった。大日本麦酒が、キャバレーの方にもビールを樽で納品することになっていた。
ダンサーの雇用を担当している山崎がガリ版刷りのメモを全員に回した。
「それが、第一回目のダンサーの一覧だ。ほぼ全員、簡単なダンスはできる。できるものだけを雇った。しかしプロは殆どいない。だから交詢社ビルの中にダンス教室用の部屋を確保して、応募してきた中にいたプロのダンサーから、毎日、カンヅメで全員がレッスンを受けることにした。開店当日までは何とか形にする。」
「ダンサー寮は?」
「築地の鰻屋、宮川を借りた。今後、銀座で複数店店を出すとなると、此処だけじゃ対応しきれないが、今のところは此処で足りる。ただ、賄いは出せない。だから外食券を全員に渡しているのだが、キャバレーの営業が始まると、問題だ。」
「何が問題だ?」
「営業終了後の食事ができない。ダンサーたちが踊りつかれて、腹をすかしても、やってる外食券食堂は一軒もない。」
太田が言うと、調達の尾崎が手を挙げた。
「うちに出入りしている、担ぎ屋に宮川も回るように指示しよう。」
調達部は、エビスヤ・ビアホールのために、複数の担ぎ屋を利用していた。昨夜もビルの裏手に何人かの担ぎ屋が色々なものを持って、急な注文に対応しようと屯していた。
「それと。美容室だが、一軒だけ使えそうなところが有ったので、そこを指定店にした。」
「近くなのか?」
「ん。寮と店の間にある店だ。通勤途中に寄れる。・・それと。寮からダンス教室・美容室・店に出るときは、独りで出ないように指示した。それも二・三人ではなく、みんなで出るように指示した。これは高乗課長からの要請だ。」
「強姦・強奪事件は、そんなに多いのか。」
「わからん、高乗課長も具体的な事件数は教えてくれていない。新聞も正確には報道していない。しかし、ここんとこの米兵の増え方は不穏だ。うちの子が事故に遭うのは避けたい。」
「お店の方は、千疋屋も営業中はMPが常駐してくれるそうです。」千鶴子が言った。
「大森の方もMP常駐になってから喧嘩も社員への暴行も激減した。MPの威力は絶大だ。たすかる。」尾崎が言った。
「ダンサーの着るものは?」太田が尾崎に聞いた。
「洋装と着物の混合だが、それなりに良いものを揃えるつもりだ。何店か納品業者は決めてある」尾崎が言った。
「何を着るか。どれを選ぶかは、女の子たちに任せて貰いたい。」山崎が言った。
「どういうことだ?」尾崎が言った。
「控室に運び込む前に、選ばせてもらいたい。」山崎が言った。
「そりゃ構わないが、どこでやるんだ?」と尾崎。
「ダンサー寮として借りた築地の宮川の寮でやる。そこに納品業者を集めてくれ。彼らが持ってきたものから女の子が選ぶ。」と山崎。
「言うのは簡単だが、やるとなると大混乱になるぞ。」尾崎が苦い顔をした。
「私が采配します。」千鶴子が言った。
全員が千鶴子を見た。
「林部長にお願いして、私、夜はダンサーとして働かせていただくことになりました。住むのも寮になりますから、私が采配します。」
全員が黙ったままになった。
「今の仕事は?」太田が言った。
「続けます。兼任するようにと林部長がおっしゃいました。」千鶴子が言った。
「そうか・・萬田がダンサー寮で指揮を執るなら、大森のようなことはないな・・」尾崎が言った。
「いま、大森海岸に慰安部は何軒出しているんだ。」山崎が言った。
「小町園・楽々園・花月・仙楽・見晴・波満川・いく穂・やなぎ・乙女・清楽・日の屋・福久良・悟空林の13軒だ。娼妓は常時500人ほどいる。居なくなるのも多い。しかし補充はすぐにできているようだ。」尾崎が応えた。 「居なくなる?辞めるのか?」
「ちがう。居なくなるんだ。前借も何もかもしたまま、着の身・着のままで居なくなる。居なくなっても、後は追わない。それが理事長から命令だ。」
「・・そうか。」全員が沈黙した。
娼妓たちの失踪の後ろに、彼女たちの仕事がどれほど残酷で過酷なものなのかを全員が窺い知っている。キャバレー部のダンサーたちは、そうさせない。口には出さないが、全員がそう思った。
しかし過酷なのは、彼らも同じである。慰安部もキャバレー部も調達部も、全員がほとんど不眠不休で働いていたのだ。
その努力の賜物として、ほんの2か月ほどでR.A.A.は
三多摩地区に、キャバレー慰安所6軒(娼妓200名ダンサー150名)
銀座・丸の内にはダンスホール・キャバレー5軒(ダンサー650名)
品川・京浜デパートをキャバレーに。
小石川に、「白山」
芝浦に、「東港園」
赤羽に、「小僧園」
と続けざまに、店をオープンさせている。