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東京島嶼まぼろし散歩#11/隼人の島を見つめて04

「言葉は音で伝わる。『延喜式』って憶えているだろ?」
「ええ、法典でしょ?律令時代に作られた。ハムラビ法典の日本版って言ってたわ。あなたが」
「うん。それまでに作られた律令法をまとめてもう少し細部まで文書化したのが『延喜式』だ。だから具体的な証例が多い。地名も多い。実はね、この『延喜式』で出てくる地名って、ほぼ90%がまだ残っているんだ。地名学者の安本美典先生がそう仰ってる。

地名は、そう簡単には消えない。そう簡単にはね。
東京は戦後、糞役人によって片っ端に替えられちまったけどね。こいつは敗戦コンプレックスからくる神殺しならぬ地祇殺しだ。真剣に怒るべきだし告発すべきだ」
「まあまあ・どうどう・・さぁ水呑んで」
「・・はい。縄文の人たちはカヌーの産地をKANOと呼んだことは間違いないだろうな。そしてそのカヌーを作るための大きな木がある山をKANO-YAMAと呼んだ」
「はいはい。まあ見てきたような言い方だけど・・それで?」
「渡来人が台頭し始めると、KANOにも漢文字が充てられた。鹿野/神野/加野/狩野/賀野/蚊野/軽野。そして加納。この地名は、租税を納めずに、国使の立ち入りを禁止する地区に充てられた」
「あ!そうね、"かのう"という山も土地も、そう言えば本当にたくさんあるわね。それ、びっくりだわ」
「簡単に並べると・・『鹿野かの』で代表的なのは、山口県周南市大道理鹿野地。古くは、賀野や牧ノ里とも書いた。『鹿野かのう』は。旧能登国鹿野村。叶・狩野とも書く。『狩野かのう』は、旧伊豆国狩野荘、いまの静岡県伊豆市だ。古くは枯野と書き、狩野になった。合わせて鹿野川・狩野川も全国に散らばっている。縄文人にとってKANOがいかに重要な生活器具だったことがよく判るな」
「その名前が、何千年もそのまま名前として残ったの?」
「そうだ。そのことの超重要性を戦後のバカ役人たちに粉に煎じて飲ませてやりたい」
「はぁ・・ほんとね。飲まして・・やりたいわね。」

「ところで・・弥生人はカヌーを使わなかったの」
「わからない。なにしろ出土物が少ない。しかし弥生期からの造船は丸木の間の板構造が大きくなる‘‘準構造船”へ替わってくことは判っている。出土品はないが描かれたものはあるからね。そしてそれがさらに進んで丸木舟らしさは全く消えて幅広の板を数段並べて釘で縫合した大板構造の船になるんだよ。以降は大板構造が中心で、僕らがいま見ているような複数の板木をあわせた舟型になるんだ。カヌーはほとんど残らなかった」
「どうして?」
「作りやすさからだろう。カヌーに大きな木を削って作るより簡単だしな」
「なるほどねぇ」
「実は記紀以降、枯野・軽野は古文献に姿を現れなくなった。記紀以降だと『常陸国風土記』に軽野と舟の話はあるんだけどな。
『鹿島郡・諸郡諸事』にはこうある。
輕野以東,大海濱邊,流著大船,長一十五丈,闊一丈餘。朽摧埋砂,今猶遺之。謂淡海之世天智,擬遣覔國ぎ,令陸奧國石城船造,作大船,至于此著岸,即破之。
山川出版社はこう書く。
『軽野より東の大海の浜辺に、流れ着きし大船あり。長さ十五丈、濶さ一丈余なり。朽ち摧れて砂に埋もり。今に猶遺れり。淡海の世に、覓国ぎに遣わさむとして、陸奥国の石城船造に令せてーーを作らしめき。此に至りて岸に着き、即ち破れきと謂ふ。』
でもこの通り、軽野で見つかったが、陸奧國石城で作られた大船だということで、構造には触れてないし、これがKANOだという記述もない。書記→万葉集→古事記で終わりだ」
「でも。名前は?」
「ん。名前は残った。カヌーに使うために大木を伐採した山にも、その名前が残った。それでもだな・・2004年に鳥取市に吸収されて無くなった鹿野町みたいな話はそこいらじゅうにある。ぜひぜひ無思想な地祇殺しは止めてください・・としかいいようがない。」


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勝鬨美樹
無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました