ワインと地中海#54/シラクサ散歩02
荷物を置いてホテルを出た。目の前の通りはラルガ通りという。右へ進むとT字路にぶつかり、これを左に曲がると海岸線にでた。僕らはそのまま浜辺まで歩いた。2mほどの高さだろうか展望台がすぐ傍に見えた。
Spiaggia Diana nel Forteという。僕らはその展望台に上った。見え目のは海原と左右に広がる海岸線だけだった。
柵まで行くと、嫁さんがすぐ下の水辺を見た。
「岩だらけね。前は?イオニア海?静かな海ね」
「ん。今日はな。このあたりまで大陸からの陸風が吹く地域だから、海は荒れると狂暴になる。それでも夏場は水遊びする観光客が多いそうだ」
「あ、だからテントやテーブルがあるのね。」
「ん。その通りだ」僕は正面の海原を指差した。
「真っすぐ西にイオニア諸島の南の島サンキトス島がある。距離として600km程度だ。海が荒れていないときならば、時速6km程度で走れば、4日から5日で渡られる距離だ。そんなに遠くはないが、しかし途中に島嶼は、向こう側の大陸に沿ったイオニア諸島だけだ。だから大海原を真っ直ぐ走ることしかできない。太古には、やはり走破は至難だったに違いない。」
「サンキトス島ょ?前に行ったキルケア島の下の方にあるのよね」
「ん。ギリシャ人たちのイタリア半島への移植は、間違いなくこの道を辿った。彼らがイタリア半島へ渡りはじめたのはBC750年くらいから。シチリアへ彼らが入り始めるのは、その100年後くらいからだ」
「それまではフェニキア人の島だったの?」
「ん。彼らは北アフリカ・いまのチュニジア、カルタゴから北上してきた。途中にマルタ島やパッテレーリア島、ベラージェ諸島が有る。彼らはこれを経由してきたと思うな。マルタ島とシラクサは100km程度しか離れていない」
展望台を見下ろすと、横に金属の階段があった。これを下りてみると海岸線に面した岩場まで行けた。
「Spiaggia Diana nel Forteってプレートがあったわね」
「ん。Diana nel Forteはディアナの砦という意味だ」
「ディアナ?」
「英語だとダイアナだな。ラテン語だとDiānaだ。ユピテルとラートナの娘で、アポロの妹にあたる。狩猟と月の女神だ」
「え~月の女神はルーナじゃなかったの?」
「出自が違う。ディアナはギリシャ神話から取り込まれたものだ。マグナ・グラエキアの旧神だ」
「フェニキアの神様じゃないの?」
「ちがう。コリント人たちの女神だ。闘神だよ。コリントはアナトリア東側にあった古代都市だ」
「コリント人って、聖書に出てくるわね」
「ん。邪神を奉ずる人々・・という扱いになっている。ギリシャ人の始祖のひとつだとされている。しかし、実際のところは、コリントの都市国家は、ギリシャ人がバルカン半島から拡散する前から存在していた。もしかすると、出自はフェニキア人かもしれないな。いずれにせよ、ディアナという女神をイタリアへ持ち込んだのは、ギリシャ人だ。
ローマのウェルギリウスが書いた叙事詩『アエネーイス』で、ディアーナは三つの顔の名を持ち、天ではルーナ、地上ではディアナ、地下ではプロセルピナであるとしている」
「幾つもの名前を持っているのねぇ」
「帰化した神の特徴だな。ここを闘神が守る砦Diana nel Forteとしたのは、ギリシャ人か・・あるいは彼らを吸い込んだローマ人か・・何れかだろう」
「闘神が守る砦・・」
「ん。フェニキア人は、海を駆使する海洋型通商国家だった。しかしカルタゴの建国後、彼らはローマを真似て帝国化していったという話をしたよな?」
「フェニキア人じゃなくて、ポエニ人になったんでしょ?」
「ん。軍人出身の王が台頭するようになって、帝国化を目指した。そして今までは、自分たち以外の新しい入植者が出てくると手放していた地中海の島嶼や沿岸都市国家を、ポエニ人は軍事力で取り戻し始めるようになったんだ」
「あらま」
「実は、少し遅れてバルカン半島から拡大したギリシャ人たちも、おなじく急速に拡大化し始めている」
「当然、衝突するわけね」
「ん。面白いのは、ギリシャ人のつくった都市国家だが、大半はギリシャにない。アナトリアだったり、島嶼だったり・・これはギリシャ人の国家形成の特徴だ。マグナ・グラエキアを構成していた都市国家群もそうだった」
「で。都市国家同士は同じギリシャ人でも仲が悪かったんでしょ?」
「ん。そもそもギリシャ人そのものが単一民族じゃなくて、幾つもの民族が折り重なったものだったからな、民族的な協働性は当初から希薄だったんだよ。ギリシャに渡ってシシリアで都市国家を起した連中も、イザコザばかりを起していたんだ」
「ドーリア系とイアニア系の対立のこと、キルケア島に行ったときにはなしていたわよね」
「ん。ペロポネソス戦争な。イタリアへの大量移植が始まる要因になった戦争だ。BC750年ころだ。
BC600年くらいになると、シケリア(シチリア)へ移植したギリシャ人は、三つの都市国家を起していた。ゲラGela/アクラガスAkragas/レギオンRhegionだ。この三都市で、ギリシャ人が支配していたシケリアを統治していただよ」
「もちろん。互いにもめてたわけ?」
「ん。とくにドーリア人の都市であるゲラは好戦的でな、王ヒポクラテスHippocratesの時代に、周辺都市を攻めて拡大を図ったんだ。その後継者であるゲロGeloの時代に、マグナ・グラエキアは/ギリシャ人たちは、シラクサを首都とした一大勢力になったんだ。そしてシケリア全土を我が物にするために、西部にあったカルタゴ領を襲ったんだよ」
「ポエニ人はびっくりしたでしょうね。もともと軒下を貸してやったはずのギリシャ人たちがおそってきたわけだから」
「ん。カルタゴにしてみれば夜郎自大な話だ。激怒した。この衝突がシケリア戦争Sicilian Warsの始まりだ。ギリシア・カルタゴ戦争ともいう」
「あー、この間、話していたポエニ戦争へ繋がる戦いね」
「ん。結果として見ると、漁夫の利を狙ったローマが参戦して、マグナ・グラエキアは併合されて無くなり、カルタゴとは一大戦争になって滅ぼしてしまうんだよ。
シラクサは、その戦争のとき、ギリシャ側の最大拠点だったんだ」
「あー、それで闘神ディアナの砦Diana nel Forteに話が繋がるわけねぇ。長い話ねぇ」
「すいません」