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超利己的『A GHOST STORY』感想文。

地下に生きる幽霊を題材にした、
いや題材はもっと他にあったのかもしれない、
まあその演劇を伊丹の劇場で観た後で、
友人が話題に挙げてくれたのが、
A GHOST STORY という映画だった。

なんとなく面白そうだけど、
観る機会を逃している映画がそれなりにある。
思い出すまでは忘れていたりもする。
例に漏れずこの映画もその一つだった。
霊だけに…?ってやかましわい。

はじめに

ネタバレあり、
知らない方への気遣いなし、
脈絡一切なし、
自分以外のものを一切配慮しない
感想的文章になる予定。

時間って主観的

時間は相対的なものという話は、
それなりの頻度でよく聞く。
それが常識をゆうに超えて客観性を失い、
一つの存在のためだけに、
映画の時間すべて捧げられていたように感じる。

夫C(あらすじから拝借)は死後幽霊になり、
妻と生活を共にした家に戻って、
そこで起こることをただ見守り、
時に干渉して過ごしていく。

悲しみに暮れていた妻は気づけば、
気持ちに整理をつけて家を出ていってしまう。
ふと気づけば知らない家庭が生活を営んでいる。
ふと気づけばパーティが開かれている。

そこに幽霊は変わらない速度で居続けている。

画面の中で起こる目まぐるしい変化は、
映画の限られた枠に収めるための抜粋ではなくて、
幽霊が実際に感じている時間にただ寄り添っている。
幽霊の体感をただ写し取っているだけに思えてしまう。

幽霊には時間が無限にあるんだろうか。
だからその意味のない期間は一瞬になったのだろうか。
生者と死者との何よりの違いは時間だったのか。

その後幽霊は過去にも行くし、
同じ時間に二人存在したりもする。
生きる人間の限られた想像力では、
捉えきれない時の流れの中に幽霊は居る。

こんな悲しい食事シーンがあってたまるか

A GHOST STORY は観て良かった映画、
人生で観て良かったトップ5に既に入るくらい、
観て良かった映画だと思う。
ただ繰り返しは観られないかもしれない、
というのが悲しすぎる食事シーンの話。

夫Cが死んで間もない頃、
幽霊で言うところの家に戻ってすぐ、
オーナーが家を訪れて、
書き置きとともにミートパイを置いていく。

どこかから妻が帰ってきて、
机に置いてあるミートパイに気がつく。
中心60度くらいの1ピースに切り分けようとする。
うまく切れないのでナイフを力任せに皿にあてる。
ちゃんと切るのも面倒になって、
立ったままフォークで区切ってパイを食べ始める。
1ピース分とか面倒になって適当に食べ始める。
立っているのもしんどくなって、
あえて地べたに座ってキッチンを背もたれにして、
大皿を片手に持って食べ始める。
目につくところからとにかく掘り進める。
絶えずフォークは強く皿にあたる。
食べるっていうか栄養取らなきゃっていう義務感で、
とにかく詰め込みはじめる。

…丁寧すぎる!
悲しみを負ったものの食事の描写が、
突如一人暮らしになってしまった者の喪失感が、
もう画面外にまで染み出してきてる。

一人暮らしは自分の好きなように出来る。
行儀が悪くても誰にも怒られない。自由!
私はそこまでしか知らないけれど、
そこに、愛する人を失うことが加われば、
こうなってしまうのか…。
こうなってしまうよなあ…。
経験していないはずなのに知ってしまった気にもなる。

たぶんもう一度あのシーンを観ると、
自分は擬似的に大切な人を失ってしまうんだと思う。
観るたびにそんなことになるなら、
あえてまた観ようとはなれない。なかなか。

このミートパイのシーンはただ本当に食べるだけで、
悲しいとかつらいとか言わない。
とにかく食べているだけなのに、
本当に悲しさが込み上げてくる。
だから本当に素晴らしいシーンだと思うんだけど、
素晴らしすぎて二度と観られない。

さらにこの姿を幽霊が見ているのだけど、
励ましも寄り添いもしないで、
ただ少し遠くから見ている。
大切な人がこんなことになってるのに、
自分にはどうすることも出来ない。
もう…だめです……!
あまりにも辛すぎるのでだめ……!

あと一つだけ

これはほんとにしょうもないことだけれど、
amazon primeのサムネの男性が、
全然主要な人物じゃなくって。

いや幽霊からしたら主要かもしれないけど。
画面に映ってる時点で主要かもしれないけど。
「いや、お前かい!」って思いました。

一人で二度目観ることは出来なさそうなので、
なにかの折にはぜひ誘ってください。

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