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ちょっとフィクション/いつものことでなくなった空き缶。

ポストの上にチューハイのロング缶が立っている。
信号が青になるのを待つ間、
ずっとそれに視線を向けていた。

というのは私のことではない。
目の前にいる学生のことだ。

私よりずいぶん若い学生が、
じっとなにかを見つめているなと気づくまで、
私は空き缶の存在に気づくことはなかった。
もちろん視界には入っていたが、
いつもの通勤路の風景以外の何物でもなかった。

私は若者の違和感のある視線に気づいて、
ふと同じ方向を見たが、
すぐに行き先を見失ってしまった。
道行く車を見ているのか、違う。
向かいの看板を見ているのか、これも違う。

おかしいと思って発信源に戻って、
ゆっくり進んだところでやっと目的地が見つかった。
見失うのも当然だった。
だってそれは、いつもの風景だ。

ペットボトルが塀の上に並んでいたり、
タピオカの容器があふれたゴミ箱の上に乗っていたり、
ベンチの隙間に空き缶が挟まっていたりする。
いつものことだ。

誰かが置くところを見たことはないのに、
どこへ行っても常識からあぶれたゴミが、
あるべきでない場所に放置されている。
何てことはない、なにも変わらない一日だ。

ただその若者という違和感が、
なにも変わらない一日に滞りを生んだ。

信号が青に変わった。
学生は横断歩道にまっすぐ向かわないで、
私の前を横切ってポストに近づいて、
長い親指と中指で空き缶をつまみ上げて、
なにもなかったように横断歩道を渡り始めた。

いや、缶を持った瞬間、
わずかに眉を歪めたような。
ともかく学生の予想外の動きに、
私は進めようとした足を硬直させたが、
我に帰って歩みを進めた。

学生は少し先を歩いていたが、
網目になった排水溝を見つけると、
缶をひっくり返した。
なるほど中身が入っていたのか。
透明な滴が流れ落ちた。

私は若者を気にも止めないふりをして、
さっさと後ろを通り過ぎた。

物珍しい若者が居たものだ。
誰も見ていない気づいていない、
ゴミの面倒を見ようなんて。

ボランティアだろうか。
いいや偽善に違いない。
だけど誰も気づくはずがない。
若者の思惑が外れる予想を立てて、
内心で若者を小馬鹿にした。

私の妄想を気にも止めないみたいに、
自動販売機の横に据え置かれた、
さっきすれ違った飲料専用のゴミ箱が
軽やかにぱこんと鳴った。

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